鏡の瑕もまた鏡なり | Scars creates a scarless mirror.

禅問答はもしかしたら、漫才のルーツじゃないだろうか。| Zen talks are suspected to be a root of modern Manzai, an art of Japanese cross talk comedy. 噛み合わない問いと答え、意味が複数あるような言葉の選択、常識と非常識の混合。それらの要素をボケとツッコミに分化させて笑いの芸に作り上げた、とか。 (雪峰)見てみい、猿が古鏡もっとるで。 (三聖)何やらわからんもんを、なんで古鏡古鏡いいますねん。 (雪峰)あかん、古鏡に瑕きずがついてしもた。 (三聖)口のきき方に気をつけなはれ。 (雪峰)すまんなぁ、わしが悪かった。寺の仕事が忙しいんや。 笑いにはまだ遠い。でも気配くらいはあるかもしれない。雪峰からすれば、ここは三聖が「猿」でつっこんでくるだろうと思ったら、古鏡の「名付けることの不可能」という一般論で来た。雪峰はそこで臨済(三聖の師匠)のように一喝するかわりに、完璧なはずの鏡が「瑕」になったと訴える。道元の説明によると、これは語義矛盾だ。瑕さえも鏡面の一部にしてしまうのが究極の鏡=古鏡だからだ(「古鏡の瑕生は全古鏡なり」)。「口のきき方」に「気をつけてくれ」とは、高度な芸への称賛を非難の言葉で言った。「わしが悪かった」、うっかり漫才の極意をこんなに早く見せてしまった。千年後の芸人らにあやまらなアカン。そら忙しいやろな。   Elements such as mismatched exchanges, double meanings, and apparently absurd uses of words hinting at deep insights are reorganized into a system of talk with differentiation of two functions... Continue Reading →

猿の鏡 | Monkeys with mirrors.

胡が来れば胡を現し、漢が来れば漢を現す。雪峰は仏法を鏡に喩えてこれを「古鏡」と呼んだ。 Dharma is like an Old Mirror that can reflect every hu and han as he/she is. That is what Xuefeng remarked about the dharma’s clearness. そこに玄沙が「明鏡」を持ってくる。雪峰は少しも慌てず、胡と漢を隠した。玄沙は抜いた刀の収めどころがない。そこで言う、「それはちがう」。雪峰「どうちがう?」。玄沙「百雑砕!」。 究極の古鏡である明鏡は、もはや現さずして現すレベルに達した。胡も漢も出る幕がない。ならば鏡そのものさえ必要ではない。いっそ粉々に砕いてしまえ(百雑砕)。だが胡漢が隠された時点で、それは雪峰には見通されていただろう。鏡もろとも粉砕する大立ち回りは蛇足にすぎなかった。 次に玄沙に代わって、三聖が登場する。歩いていると、猿の群れがいた。すぐさま雪峰は言った、「あの猿どもは古鏡を背負っておる」。秀才の誉れ高い三聖はこう応じた、「永劫の昔から名付けられたことのないものを、何の根拠があって古鏡というのですか」。雪峰は「瑕生也(きずになった)」と言った。 三聖の問がくだらないので古鏡に瑕をつけたということか。それも玄沙の「百雑砕」に遠く及ばない小さな瑕だというのか。次回に続く。 :正法眼蔵「古鏡」の章より When Xuansha came up with his Bright Mirror, Xuefeng let the hu and han disappear in an instant. Xuansha lost his target before starting... Continue Reading →

至現は現すことなく | The ultimate mirror is no mirror

雪峰の古鏡、玄沙の明鏡について、道元はこう言っている。古鏡と明鏡は別の鏡ではない... | Dogen remarks on the "old" and "bright" mirrors that they are not distinct nor identical. 明鏡来はたとひ明鏡来なりとも、二枚なるべからざるなり。たとひ二枚にあらずといふとも、古鏡はこれ古鏡なり、明鏡はこれ明鏡なり。......しかあれば明鏡の明と古鏡の古と、同なりとやせん、異なりとやせん。 |正法眼蔵第十九・古鏡 古鏡に明鏡をもってきても、鏡が二枚になったわけではない。二枚ではないにせよ、しかし古鏡は古鏡、明鏡は明鏡だ。さて明鏡の「明」と古鏡の「古」は、同じなのかちがうのか。 それを知りたいのに、教えないのが一流のコーチというものだ。考えるしかない。万物万象を現うつす古鏡と、現すべき一物もない明鏡。ここで古代中国のある伝説を思い出す。いにしえの弓の名人の語った言葉だ(中島敦『名人伝』)。 至為は為す無く 至言は言を去り 至射は射ることなし 胡が来れば胡を現し、漢が来れば漢を現すまでに磨かれた古鏡は、所詮、現之現というもの。至現は胡漢ともに去り、ついには鏡さえ要しない。だから道元は言ったのだ、 いま雪峰道の胡漢倶隠、さらにいふべし、鏡也自隠なるべし。 ––– 雪峰は胡も漢も倶ともに隠れると道いったが、さらにこういうべきだった、鏡もまた隠れると。   On Xuefeng's old mirror and Xuansha's bright mirror, Dogen commented as follows: Even after the bright mirror comes up, there are not two mirrors. Although there are not... Continue Reading →

古鏡と明鏡 | Supermirrors

雪峰はその鏡を「胡こが来れば胡を現うつし、漢が来れば漢を現す」と言った。するとすかさず玄沙が前に出て、「鏡が来たらどうなります?」と言った。 禅問答は戦いだ。クイズやテストとはわけがちがう。雪峰は玄沙の必殺の一撃をひらりと躱して次の瞬間にカウンターを喰らわせなければならない。かれは言った、「胡漢倶隠」(胡も漢も隠れる)。 どういう意味か。じつはどう訳したらいいかわからなかったのでどちらも「鏡」としたが、原文では雪峰はその鏡を「古鏡」といい、玄沙は「明鏡」と言っている。「古鏡」は胡来胡現・漢来漢現し、玄沙は「明鏡」が来たらどうなのかと尋ねたのだ。明鏡は、あきらかに古鏡とはちがう。あらゆるものをそのとおりに現す古鏡に対し、明鏡はみな隠れる、つまり何も現さないと雪峰は言うのだ。それでも鏡なのか?ではなぜ「明」鏡と呼ばれるのか? まずい。戦闘のど真ん中に来てしまった。   Xuĕfēng's mirror was a perfect one: if hu came, hu appeared; if han came, han appeared. His disciple Xuánshā, then, asked a question: "What will appear if a mirror comes?" hu(胡)generally means foreigners (often the northern and the western races in particular) from Chinese's viewpoint, whereas han(漢) refers to native... Continue Reading →

胡が来れば胡を現し | Mirrors, bells, and dharma.

禅のテキストは鏡のようで、鐘のようでもある。映そうとするものに対して映し、打てば響き打たなければ響かない。Texts of Zen Buddhism are like mirrors or bells. They hardly carry any meaning by themselves. 臨済録に登場する普化は、いつも街頭で鈴を鳴らしながらこう唱っていた。 明頭来明頭打。暗頭来暗頭打。四方八面来旋風打。 明で来れば明で返し、暗で来れば暗で応じ、四方八方から来れば旋風つむじかぜのようにする。(臨済録、岩波文庫 157p) 雪峰は仏法を鏡に喩えた。 胡来胡現、漢来漢現。 胡が来れば胡を現うつし、漢が来れば漢を現す。 :正法眼蔵「古鏡」 胡とは西域のこと。漢からみれば異民族になる。当時の鏡は金属鏡だ。磨いてはじめて映るようになる。雪峰が磨いた仏法は、胡であろうと漢であろうとすべてのものを鮮明に映すレベルに達したと、自ら言っているのだ。すると弟子の玄沙がすかさず質問した。「鏡が来たらどうします?」 どうするかは、次回。   Ideas emerge from the text in response to readers’ active reading, as images appear reflecting the object against the mirror or like sounds made by a stick hitting... Continue Reading →

水のさとり | A reflection on water

禅というからには心がテーマかと思いきや、その心の目はひたすら外に向かう。While Zen Buddhism is generally believed to be about the inner state of mind, Dogen's eye is directed to areas outside of mind. 正法眼蔵に特徴的なのは、山に水に月に花に鳥や魚、目に見え声が聞こえるリアルな風景への言及が多いことだ。禅というからには心がテーマかと思いきや、むしろその心の目はひたすら外に向っている。 依自にあらず 依他にあらず 依水の透脱あり :「山水経」正法眼蔵第二十九 自分の力でもなく、師に随ってでもなく、水による覚りというものがある。ならば、水を磨こう。水を究めよう。水を磨くとは、水をみる眼を磨くことだ。水をみる眼は火をもみる。火もまた磨くべし。 映画「火天の城」によれば、信長は安土城竣工の夜、千本の松明を灯して城の姿を湖水に映し、工人たちの奮闘を讃えたと伝えられる。   What impresses the readers of Shobogenzo is, among other things, that its text is so rich in remarks about natural things like mountains, waters, flowers, stars, birds,... Continue Reading →

辺なやま | Imagine how mountains walk.

正法眼蔵はどうやら「〜辺り」の言語、つまり近傍系の言語で書かれているらしい。It might be Dogen's or even Buddha's aim that the world could be redesigned through a shift in language.  「辺あたり」の説によると、花なら花の、月なら月の辺り、これをあらためて「花」や「月」の意味と定める。「私」と言えば、私の辺りのあなたやかれらや街や川や橋まで、私から見渡すかぎり、いや見渡せるさらに先までが「私」になる。限界はない。これは「あなた」や「川」についても同様なので、私・あなた・山河大地日月星辰それぞれの「辺り」がみな、重なり合う。音みたいだ。笛の音というとき、音源である笛だけを指してはいない。音は笛の辺りに広がり、鐘や鼓の辺りと重なり合う。 人のふつうの言語は物・事について語る言語。これに対してどうやら正法眼蔵の言語は「辺り」の言語、言い換えると、近傍系の言語になっている。世界を近傍系に移す。もしかしてこれが道元の、そしてもっと遡れば、ブッダのプロジェクトの一つなのではないか。だとすると、道楷和尚の言ったこの言葉の意味もわかろうというものだ: 青山常運歩 石女夜生児 (山はいつも歩いている。石女は夜に児を生む。) 正法眼蔵第二十九「山水経」 歩く旅人の近傍の山々も「歩く」風景の一部だろうし、石女(石像の女)の近傍で産声を上げる人の児もある。   Think about "aroundness", again. Whereas our language usually deal with an object or event x, the idea of aroundness shifts the reference of a word 'x' to U(x), the... Continue Reading →

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