四角形の響き| Echo of a square

たとえば四角形を一つ置く。 ⬜ カードか。金属か。紙か。それとも孔か。立っているのか。落ちているのか。あるいは浮いているのか。周りはどうなっているか…... などと考えたとしよう。それは四角形の反響だ。水面に落ちた花びらが小さな波紋を発生させるのといっしょだ。 正法眼蔵『神通』から: 大潙和尚が寝ているところに、弟子の仰山がやって来る。大潙は起き上がって仰山に言う、いまわしが見ていた夢の話をしてやろう。仰山は聴く姿勢。大潙が言う、今の話で夢解きをしてみなさい。すると仰山は、盆に水を満たし、手拭いを一枚添えて大潙に渡した。大潙はそれで顔を洗う。さっぱりして座ったところに、もう一人の弟子・香厳が入ってきた。大潙は香厳に言った、いま仰山と一番手合わせしたところだ。なかなかのものだ。おまえもここでなにか言うべきことがあるなら言いなさい。すると香厳は、茶を一杯点じて差し出した。大潙いわく、二人とも、やるじゃないか。鶖子、目連もおまえたちほどではあるまい。 落語に出てきそうな話だ。鶖子と目連はブッダの十大弟子のなかの二人である。笑いをこらえてシリアスに読むと、言葉による問いと言葉によらない応答が滑らかにやりとりされている。問・答だけがあって、それぞれの材質は関係ない。ただ反響を聴きながら、応答を瞬時に選び取っていく。大潙トリオの高度な技を評価して、道元はその演奏を正法眼蔵に入れたのだろう。       If I place a square here: ⬛ you may imagine it to be a card or a box or a window, standing or lying or floating, made of wood or metal or paper, and so on. Like a petal falling to create small ripples on the... Continue Reading →

過去は去らず| The past does not pass.

過去は変えられないが、過去の解釈は変えられる。だから、過去は変えられる。 「不可逆的に流れる時間」という観念は過去と未来の非対称に基づいている。未来は未定で、どんな未来にするかは自分次第というところがあるが、過去は既定で動かせないと。しかし、もしこの前提が外せるなら、話は変ってくる。時間というものへの眼差しが変わる。道元の「時」を聴こう: 三頭八臂はきのふの時なり、丈六八尺はけふの時なり。しかあれども… |正法眼蔵「有時」 「三頭八臂」「丈六八尺」はそれぞれ阿修羅像と仏像の外形的特徴。きのうは阿修羅で、今日は仏。全然別だ。そうではあるが… その昨今の道理、ただこれ山のなかに直入して、千峰万峰をみわたす時節なり、すぎぬるにあらず。 「昨」と「今」は全然別に見えるけど、そうじゃない。山に入って峰々を見渡すように、今という峰、昨という峰、昨々という峰、一万年前の峰々、一億年前の峰々が、連なりながら展開する。時は過ぎるのではない。時は、過去現在未来という姿で、今、同時にある。 三頭八臂もわが有時にて一経す、彼方にあるににたれども而今なり。 きのう見た阿修羅はわが時のなかの一つ。過ぎ去ったかにみえるが、じつは今なのだ。 丈六八尺もすなはちわが有時にて一経す、彼処にあるににたれども而今なり。 今眺める仏もやはりわが時にあって、やがて去っていくかにみえるけれども、ずっと今なのだ。……そうなると、はるか昔に菩提樹の下でブッダが覚り、やや昔に壁に向って達磨が覚り、いまわたし(道元)が覚りつつあるというのはまちがいで、ブッダも、達磨も、道元も、それから他のすべての諸仏も、まさに今、一斉に咲き誇る花のように、覚めて立つ。 諸仏、斉肩同時の成道なり。 |正法眼蔵第三十九・嗣書   While the past cannot be changed, its meanings can be changed through interpretation. That is to say, the past can be changed. The notion of irreversible time is based on asymmetry between the past and the future, between the time in... Continue Reading →

快適の設え | Do not seek it. Create it.

洞山大師に僧が尋ねた。 「暑さ寒さを避けるにはどうすればよろしいでしょうか」(寒暑到来、如何廻避) 師は答えた。 「暑くも寒くもない処に行けばいい」(何不向無寒暑処去) 僧「それはどんな処ですか」(如何是無寒暑処) 師「寒い時には死ぬほど寒くて、暑い時には死ぬほど暑い」(寒時寒殺闍梨、熱時熱殺闍梨) |正法眼蔵第三十七・春秋から そんなに暑くて寒い処がどうして「無寒暑処」なのか。たぶん洞山が言うのは、それはどこかに設えられた快適な場所ではなく、どこにでも快適を設えることなのではないか。極寒と灼熱の中に、別世界を挿入せよと。これを一つの転回と考える。   Master Dongshan was once asked by a monk, “When cold or heat comes, how can we avoid it?” Dongshan replied, “Why don’t you go where there is no cold or heat?” The monk said, “Show me the place where there is no cold or heat.” Dongshan... Continue Reading →

春はあけぼの | At blossoms we meet spring

春は花にいり、人ははるにあふ。 (正法眼蔵第四十三・諸法実相) 人は春に直接逢うことはない。「花で」春に逢うわけだ。「風で」逢い、「色で」逢い、「言葉で」逢う。逢いかたによって少しずつちがった春になるかもしれないが、それでも春に変わりない。同じように、花で風で色で言葉で、「秋」に逢い、「冬」に逢い、「時」に逢い、「時の移り行き」に逢い、「地形」に逢い、「地形の移り行き」に逢い、その他さまざまの「 」に逢う。 一般化すれば、人はXを経由してYに逢う。ただしXは具体的・物質的なもので、Yはなんといえばいいだろう、様子とでもいおうか、Xよりも抽象的・普遍的なものだ。道元はそれを「実相」とよび、具体的な花や風は「諸法」と呼ばれる(仏教用語でいう「法」は意味が広く、事物という意味もある)。諸法と実相の関係。ここにもしかして、いろいろな秘密が密集しているんじゃないだろうか。   Dogen says, Spring enters blossoms and one encounters spring. ––– ‘All Things and Their Modalities’ in Shobogenzo Spring is a kind of entity that never be directly encountered; we only experience it at blossoms, as well as at wind, at colors of the sky, at words of conversation, etc. Thousands... Continue Reading →

無差別の道 | Absolutely equal

なにか特に大切にしたいものがあるとして、それを仏教の場合は「さとり」とか「菩提」と呼ぶわけだが、仏教に限らなくてもいいので、それをSとしよう。道元はこう言っているように思える。Sに会って歓喜し、会えなくて悲嘆に沈むなら、Sが、悲しむ者と喜ぶ者とを作り出していることになる。多くの経典の伝える「無差別」の法はそういうことではないはずだ。Sが執着の対象となり、差別を生成するのなら、たとえそれが覚りであろうと無上菩提であろうと、仏法の原則に反する。これを道元はどう回避しているか。その言葉を聴こう。 ...しかのごとくにあらざれば学道にあらず。このゆゑに得道の得道せず、不得道のとき不得道ならざるなり。得不の時節、ともに蹉過さかするなり。 |正法眼蔵第四十二・説心説性 (...そうでなければ学びの道ではない。道を得ても得ず、得なくても得ないということにならない。得る時、得ない時、その両方にすれちがってしまう。) なにかを批判している文脈だが、注目すべきは、「得道」と「不得道」に等しい態度をとっていることだ。道を「得る」だけでなく、「得ない」ことも同じく道の要素と考えている。Sが道にあるならば、 –Sもやはり道にある。覚りに到りえたから仏なのではない。到っても到らなくても、道を歩きつづける者が仏なのだ。   Let S be a special point or state that is assumed to be most important within any given field. S in Buddhism is considered to be satori or nirvāṇa. But Dōgen seems to hold a view against assigning a special state within the Buddhist practice: If a supposed... Continue Reading →

「この惑星」の内部 | Under the surface of this planet

華厳経にいう、 三界の所有は唯是れ一心なり 三界とは生きものが輪廻する三つの世界のことで、輪廻の分があるから「三」なのだが、要するにそれを含めて「世界」のことだ。「世界に有るところのものはただ一つ、心だ」と言っている。 これがいわゆる唯心論と同じかどうか。たぶんちがうと予想。つまり重点は「心」ではなく「一」にある。「三界の所有は唯是れ 一物 なり」と言っても同じということだ。なぜか。当研究所がしばしば用いる「物心連続仮説」をご存知の方は一瞬でわかるはずだ。ご存知でなければ、別解をここに示す。 華厳経は「心」がなにか、「心」にはどんなメカニズムがあって三界を形成しているか、ということには関心を払っていない。ということは、「心」は無定義用語、つまり幾何学者が「点」を定義しない(する必要がない)のと同じく、仮に選んだ記号にすぎない。何でもかまわない。三界を構成するものは一つしかない。それを心とする。物としてもいい。要は、三界には区別というものが存在しないと。 SFみたいに言うと、通常の惑星の三界は種々の区別、したがって構造をもっている。しかし惑星Zの華厳経にはそれがない。まるで、地形が形成されない恒星のような状態を華厳経が記述しているかのようだ。地球はどうなのか。その表層の起伏を掘削すれば、もしかすると地底からZが出現するのではないか。   In Avataṃsaka Sūtra, Buddha says: “Mind is the one and only one element throughout the three realms." Though the idea of 'three realms', or three worlds, sounds fantastic suggesting a SF-like scenario, it is actually a samsaric extension of the mundane world. The point is that Buddha proposes... Continue Reading →

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