7月21・22日、道元研究の国際シンポジウムが東京で開かれた。講演者の一人アルド・トリーニの言葉通り、道元を世界思想家として考える時代がやってきたのだ。講演者の中には依然として道元を曹洞宗学に回収しようとする意思を隠さない者もいたが、もはや道元の世界化を止めることはできないし、止めるべき理由もない。(なんか翻訳日本語調になっている気がするが、興奮がまだ消えていないからだ) フッサールの「間主観性」というアイデアを道元の文脈に挿入するのを試みたゲレオン・コプフの講演を聴きながら、考えたことがある。コプフの意図には沿っていないかもしれないが、まさに沿わないことが彼の意図なのだとも思う。フッサールから道元へ、道元からフッサールへの伝法の意義は、共通点を探すことではなく、変換を記述することにある。そうでないとしたら、仏法はゴータマ・ブッダの言葉を凍結固定して保存すればよく、後世の仏弟子は初めの仏説を復元することに努力を傾注すればよかったはずだ。だが仏法はそうではなかった。ブッダの DNA はたえず変異を繰り返しながら進化し、さらにこれから世界スケールの多様性を受け入れようとしているわけである。 紐があるからその両端がある。端だけがあって後から紐で結ばれるなどということはない。これが「間主観性」という視点であると思われる。コプフの説明によれば、フッサールは「端」から出発して「紐」を発見した。道元は逆に、「紐」を辿って「端」に達する。紐をどこで切断するかによって端の形状はどのようにも変る。雪竇せっちょう(980–1052)はこう述べた: 世尊有密語 迦葉不覆蔵 一夜落花雨 満城流水香 ––– 正法眼蔵・密語 咲き誇る花(密語)が一夜にして流水の香り(不覆蔵)となる。こうしてさまざまな形に「端」を現成させながら仏法の「紐」はどこまでも続く。「紐」はつねに「端」の「間」だが、その「間」こそが実在であって、「端」は「間」の断面にすぎない–––とまとめても、フッサールから文句が出ないことを願う。そしてその紐は誰かが製品として用意してくれてあるのではなく、編みつづけなければならないものだということも、付け加えておく。 The first international symposium on the study of Dōgen was held in Tokyo last week. It was really a landmark meeting as Aldo Tollini, from Universita Ca' Foscari di Venezia, said in his lecture; “Now the age has come to consider Dōgen... Continue Reading →
もしも道元が数学者だったなら | Dōgen’s sequence of practice
修行の彼岸へいたるべしとおもふことなかれ、彼岸に修行あるがゆゑに。 |正法眼蔵第三十四・仏教 これは「修行に終りはない」という意味にとっていいのだろうか。もしそうなら「彼岸」はなんのためにあるのか。「彼岸」とは(煩悩の)川を渡り切った向こう岸のことだけど、それは日常行為にとっての「目標」みたいなもので、修行を動機付けるための方便にすぎないのだろうか。...と考えているうちに、これは「数列」に似ている!と思った(前回)。 高校で無理数を習った読者はそれを一旦忘れてもらって、√2 という記号を、次の命令を表すものとする: x2 < 2 を満たす、小数点以下 n 桁の小数で最大のものを書け。 その小数を an としてこの命令を実行すると、 a0=1, a1=1.4, a2=1.41, a3=1.414, a4=1.4142, . . . (✻) という数列が出来る。念のため a1と a2 についてだけ確かめてみると、 1.4×1.4 = 1.96 < 2, 1.5×1.5=2.25 > 2 1.41×1.41 = 1.9881 < 2, 1.42×1.42 = 2.0164 > 2 以下同様。こうして命令 √2 は数列 1, 1.4, 1.41, 1.414, 1.4142, ... を生成する。これを √2 →... Continue Reading →
数は量れるか、量は数えられるか | On counting and measuring
志賀浩二『数と量の出会い』2007 によると、今でこそ「数量」という言葉があるが、数と量はもともと全く異なる概念だったという。 考えてみれば、その通りだ。「数える」ことと「量る」ことは全然別の行為ですからね。たとえば、数えた結果が「ほぼ…」になることはありえない。ひぃふぅみぃ…と数えて「ほぼ十二枚でんな」と急に関西弁になると、すぐ番頭はんに「あほ!きちっと数えんか!」と怒られる。「きちっと数える」ことが可能だから怒られるわけだ。数がもっと多くなって、大阪の人口が「約250万」としても、それは下の方の桁を省略しているだけで、必要なら「約」を外した数は示せるはずだ。一方、量については、量るという行為が測定器を使う以上、その精度に応じて測定結果はつねに更新される。「1mの棒」はありえない。「約1m」「約 1.027 m」「約 1.02734m」… の棒しかないのだ。 その水と油のような数と量とがいかにして出会ったか。それがこの本の主題であり、そして同じようなこと –––「量を数える」みたいなこと ––– が数学以外の場面にもありそうだと思うわけだが、その前にもうちょっと数学。 究極の定規 “G” が開発されたとしよう。Gはどんな物体も望みの精度で正確に測定できるし、Gを装備した工作機械 MG は何でも正確な精度で物を作れる。「一辺が 1m の正方形」と入力すると、 MG は一瞬でその正方形を出力する。では、その正方形の対角線の長さを測りなさいと命令すると、精度ハ?と尋ねてくる。小数点以下百万桁といえば百万桁を、十億桁といえば十億桁を、MG は1秒もかからずに出してくる。こっちがそれを読むのに(読もうとは思わないが)1週間かかるとしても。その最初のいくつかは、二千年前のギリシャの数学者がすでに計算してある。 1.414 1.4142 1.41421 1.414213 1.4142135 ... それって、√2 のことでしょ?と答えないでほしい。まさにその √2 の謎に出会おうとしているのだ。そしてそれは、道元のことば: 修行の彼岸へいたるべしとおもふことなかれ、彼岸に修行あるがゆゑに。 |正法眼蔵第三十四・仏教 と何らかの関係をもっているにちがいないと思っている。続きは次回。 The number and the amount are quite distinct ideas, representing the actions of counting and measuring respectively. You can count the exact number of a... Continue Reading →
百千万億の経巻 | You will read billions of scrolls of sutras out there.
二十七祖・般若多羅はんにゃたら尊者が国王主催の昼食会に招かれた時のこと。 国王が尊者に問い質した、「他の僧侶らは皆わたしの前で経典を読誦した。あなたはなぜしないのか」。すると尊者は答えた、「諸縁に随わず、我身に安住もしない。わたしは百千万億巻の経典を常に誦じている。一巻や二巻どころではない」。–––正法眼蔵第三十「看経」より ここで「我身に安住しない」と訳したところは「不居蘊界」で、蘊界とは五蘊(人間の身心を構成する五要素=色受想行識)をいう。尊者が居るのは、五蘊に規定された世界の外ということになる。不随衆縁・不居蘊界の眼に映るすべてのものは、たとえ文字でなくても仏典でないものはなく、耳に聞くすべての音は、たとえ言語でなくても仏説でないものはない。 蘊界の外。そこは蘊界の別なく、もの・ひと・ことばが交わる空間だ。その空間を一々の衆生の行動様式として「現成」させる。どうやらこれが仏道のほんとうの目的ではないか。個人のさとりとか、もう関係ない。 When the King of East India invited Prajnatara the 27th Ancestor to his luncheon, the King asked him, “Everyone turns [reads] a sutra except you, venerable. Why is this so?” Prajnatara said, “While exhaling I do not follow conditions. While inhaling I do not reside in the realm of skandhas... Continue Reading →