この世界の外に、世界とその人々のふるまいをプログラミングしているエンジニア・Xがいるとしよう。Xは世界を面白く、しかも美しくデザインしたいと思っているとしよう。面白さ、美しさの定義は措く。むしろXは世界をデザインすることを通して面白さと美しさの概念を探究しているかもしれない。 Xはバグ処理に日々忙殺されることを嫌って、自ら造った「人々」に自律性を与えることにした。これによりXは世界の細部の制御から解放され、大局的な動作に関わる変数の制御に集中できるようになった。Xは来る日も来る日もコードを書きつづけた。それらはXが選んだ預言者たちによって人々に伝えられた。ある伝承では、預言者としてアブラハム、モーセ、イエス、ムハンマドらの名があり、別の伝承では、ブッダ、ナーガールジュナ、達磨、道元らが含まれる。 道元が伝えたコードの一つを見よう。これは洞山大師の言った「説心説性」についての解釈コードだ。通常これは「心を説き、性を説く」と読まれるが、道元によると… 性にあらざる説いまになし、説にあらざる心いまだあらず。 ––– 正法眼蔵四十二・説心説性 心「を」説く、性「を」説くというシンタクスが解かれて、説と心、説と性のたんなる結合になっている。どうしてそんなことをするの?Xが苦心しているのは人々の「ふるまい」の設計だ。たとえばそれは「説」、つまり言語的なふるまいだ。言語は人々の思考と行動の様式を決める主要なファクターといっていい。「どう説くか」。Xはこの問いを、「何を説くか」に変換したのだ。言語的ふるまいの記述を、オブジェクト指向にしたということだ。「説」という操作を、「心」や「性」というオブジェクトに制御させる。人々(ユーザー)が「説」くかと思いきや、説くことをコントロールするのは、説かれる対象の方なのだ。 しかも、プログラミングにおけるオブジェクトにとって本質的なのは、その内容ではなく外形であるという(@raccy)。これは道元が「心」や「性(仏性)」の定義に関心を払わないことと符合する。オブジェクト群を無定義のまま、それらの周囲に説(テキスト)を展開させるという方法がとられているのだ。 Imagine an engineer ‘X’ outside the universe who is programming the complex design of the world and its people’s behaviour. X wants his world to be more fun, more attractive, not only to himself but to all the inhabitants of the world, including fishes, birds, flowers and... Continue Reading →