世界は小さな世界の集合である|Across myriads of tangible worlds (1/2)

「世界」という、よく使う言葉の精度を上げたい。 自分の知っている世界は、「世界」の微小な部分でしかない。本が雑然と積まれた机、左官屋のTが塗った白壁、春の日差し、午後に行く予定の横須賀のレストラン、このまえ読んだ平家物語のなかの宗盛の言葉。挙げればきりがなく、それなりに長いリストができるとしても、「世界」の全体に比べれば私の世界など微塵に等しい。とはいえ、いかに小さくても一応世界の小部分を成している以上、その微塵になにか名前を付けることは許されるだろう。仮にそれを「小界(こかい)」と呼び、記号 𝑈 で表わす。当然、私の小界と他の人たちの小界は一致しないから、それが誰の小界であるかを示すインデクスが必要になる。人 𝑥 の小界を 𝑈(𝑥) と表わそう。まず言えることは、 𝑥 ≠ 𝑦 ならば、𝑈(𝑥) ≠ 𝑈(𝑦). だが2つの小界 𝑈(𝑥), 𝑈(𝑦) は、一致はしないとしても、共通部分を持つということはありうる。私 𝑥 と読者であるあなた 𝑦 は互いのことを全く知らなくても、いままさに 𝑥 の書いたテキストを 𝑦 が読んでいるということによって、小界 𝑈(𝑥), 𝑈(𝑦) は交わっている、共通部分をもっているということになる。 𝑥 と 𝑦 をもっと疎遠なものにしてみよう。𝑦 は江戸時代に生きていた侍としよう。私 𝑥 と侍 𝑦 が会うことは決してない。しかし、𝑦 が見上げた空は、いま 𝑥 が見上げる空と、やはり同じ空である。「空」と言うのが曖昧なら、「月」に置き換えてもいい。地球を周回する唯一の月を、ともに見たのである。このかぎりで、それぞれの小界 𝑈(𝑥), 𝑈(𝑦) はやはり交わっている。こうしてみると、人と人は稀にしか交わらないとしても、小界どうしの交わりは相当に頻繁であり、広汎であると言えそうだ。 次に、人への限定を解こう。𝑥 は動物でも植物でもよいとしよう。動植物も世界の構成員である以上、そうされるべき権利は当然ある。岩石はどうか。足もとに落ちている石ころの小界を人間が想像することは困難だ。が、人間が想像できるかどうかは、石にとってはどうでもよいことだ。同様のことを数学者は数についてやってきたではないか。虚数 𝑖 の意味が最初からわかっていたわけではない。それはただ2乗すると -1 になるという、実数の乗法に反する「架空の数」だったはずだ。石の小界もさしあたっては架空の小界、虚界であってかまわない。 𝑥 の変域をさらに拡張する。人物も、岩石も、現存するものに限る必要はないだろう。過去に生きたすべての人々、過去に存在した一切の有情・無情にもそれぞれの小界があって、現在の小界層と因果的に連続していると考えるのは無理なことではない。 (つづく) Concerning the... Continue Reading →

ジョイントを交換せよ|Buddha’s project to redesign the society (2/2)

ブッダはどうしたか。 ブッダは、言語に「オブジェクト指向」を導入した。つまり、人々の交す言語に、仏法というオブジェクトを追加した。それはまだ見ぬ認識風景の集まりみたいなもので、ブッダ自身、「我は無い」とか、「あらゆるものは無常だ」といった程度の最小限の内容しか与えていない。だがこのオブジェクトを設定することによって、そこに様々な属性を定義していくというプログラムがひきおこされる。ただ言葉を交すのではなく、仏法について言葉を交す。これによって仏法経由の言語が日常の言語空間を浸潤していく。同様の試みが西方で「神」オブジェクトによって開始されており、それがやがてイエスによって、次にムハンマドによって更新されることを、ブッダは知らない。 だからブッダは人々に向かって説法した。ひたすら仏法言語を拡散することに努めた。黙って自分だけ「さとり」に浸っている場合ではなかった。 道元に語ってもらおう: 大道十成するとき説法十成す 法蔵附嘱するとき説法附嘱す 拈華のとき拈説法あり 伝衣のとき伝説法あり このゆゑに諸仏諸祖おなじく威音王以前より説法に奉覲しきたり 諸仏以前より説法に本行しきたれるなり 説法は仏祖の理しきたるとのみ参学することなかれ 仏祖は説法に理せられきたるなり |正法眼蔵第四十六・無情説法 つまりこう言っている。仏法を経由する十個のコードは十の言葉として人々に共有され、一揃いのプログラムが与えられれば一篇の物語となって拡散する。華を拈れば華を説き、衣を伝えれば衣を説く。こうして仏祖たちはみな永劫の昔から仏法の言葉を創り、広めつづけた。しかも、仏祖が仏法言語を創っただけではない。仏法言語が仏祖を創りもしたのだ。   The strategy Buddha developed to change people's way of using their language can be called 'object-oriented-ness'; he added an absolutely new object, dharma, to the language people spoke. It is kind of a yet unknown collection of facts and truths about yourself, your experience, the world you... Continue Reading →

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