禅のテキストは一見して矛盾に満ちている。これを、ありがちな解説書に言うように「言葉を超えた真理を示す」ものと考えるのを止め、テクスチャーとストラクチャーという観点から見直してみたらどうか。 関数を微分すると、定数項が脱落する。静的なパラメータが消えて、動的特性だけが残る。それはグラフの傾きであったり、曲率であったりする。これを関数の「テクスチャー」とする。 𝑦﹦sin 𝑥 のテクスチャーは 𝑦′﹦cos 𝑥 であるというように。逆に、テクスチャーをある境界条件のもとに積分して現れるグラフを、その「ストラクチャー」と呼ぶことにする。 『正法眼蔵』の冒頭: 諸法の仏法なる時節、すなはち迷悟あり、修行あり、生あり、死あり、諸仏あり、衆生あり。万法ともにわれにあらざる時節、まどひなく、さとりなく、諸仏なく、衆生なく、生なく、滅なし。 前半と後半がまったく矛盾しているように見える。だが、前半は迷/悟、衆生/諸仏という、仏法を構成する静的な区別=ストラクチャーの記述であり、後半ではそれらの項が〝微分〟されて消えたと考えれば、矛盾は解消される。万法ともに「われにあらざる」とは、あらゆる存在者は自存せず(無自性)、つねにその因果的近傍(因縁)とともにあるという、龍樹の「空」の原理を述べる。それは、点から全体に一挙に飛躍するストラクチャーの観点ではなく、近傍の連なりとしてのテクスチャーに着目する考えかたである。 Zen dialogs seems to be characterized by apparent contradictions. Rather than follow the popular explanation that Zen Buddhism, through contradictions, shows us the "truth beyond logic", let me consider them from the viewpoint of contrast between texture and structure, or between differential and... Continue Reading →
世界は小さな世界の集合である|Across myriads of tangible worlds (2/2)
(前回から続く) 人、物、事、しかも現存するものに限らず、過去にあったもの、これからあるかもしれないものにも皆、それぞれの小界(こかい)があって、現在の小界に因果的に連結されている。そればかりか、分析哲学にいう「可能世界」も可能小界に分割されて、やはり小界の一部を作すと考えられる。こうして最大限の幅で考えられた事物 𝑥 の全体を 𝛤 として、それらすべての 𝑥∈𝛤 にわたって各々の小界 𝑈(𝑥) を併せた巨大な集合を考え、これを世界 𝑊 と呼ぶ: $latex W = \bigcup_{x\in \Gamma} U(x)$ ふつうの言葉で言い直そう。世界とは、人や動物、植物、岩石、その他諸々の事物の集合ではなく、事物の近傍(小界)の連なりなのである。これに伴い、「私が世界に存在する」という従来の描像に代えて、「私は私の小界を通じて世界に存在する」という描像が採用されることになる。自己の小界は、無数の他者の小界と、ときに重なり、ときに離れながら、世界という無際限の空間の波動のなかにある。一点 𝑥 の振動は一小界 𝑈(𝑥) を振動させ、一小界の振動は百千万小界に伝播し、やがて世界の辺際に去っていく。 自己 𝑥 の行住坐臥はじつは自己の小界 𝑈(𝑥) の行住坐臥なのである。自己の洗面沐浴は自己の小界の洗面沐浴なのである。ゆえに道元はこう述べた。澡浴し、香華を添えるは、ひとり身心を浄めるにあらず。山河大地を浄め、日月天空を浄め、過去現在未来を浄めるものなりと。 仏仏祖祖嫡嫡正伝する正法には、澡浴をもちいるに、身心内外、五臓六腑、依正二報、法界虚空の内外中間、たちまちに清浄なり。香華をもちいてきよむるとき、過去現在未来、因縁行業、たちまちに清浄なり。|正法眼蔵第五十・洗面 Everything has its kokai (小界), a causal environ surrounding it. By 'everything' I mean any human being, any living creature, any physical object, or any event which... Continue Reading →