光、万象を呑む|In the sea of silent light

もし月がなかったら、地球の様子はまったく別のものになっていただろう。潮の満ち干はないかもしれない。夜行動物の習性は変り、あらゆる生物の内分泌系の月周期が欠落する。平安時代の和歌の詠み手たちは花鳥風月の一つを失い、唐代の仏祖も次のような詩は書けない。 心月孤円 光呑万象 光非照境 境亦非存 光境倶亡 復是何物 * 心月孤円にして、光万象を呑む。 光、境を照らすに非ず、境、亦た存するに非ず。 光境倶に亡ず、復た是れ何物ぞ。 A (地球) の外部にあるB (月)。この二項関係 〈A, B〉 を与える〝外部にある〟という形式について考えよう。この関係の本質は「AからBに到達することができない」ことにあるのではなかろうか。その逆、BからAへの作用は今述べたように無数にある。日々、いや毎夜、月から地球に到達する膨大な影響に比べれば、地球の人類のうちの十数名が何十年か前に月面に降りたという程度のことは偉業であるとしても無視できるレベルだ。この非対称性は、結局、影響に反応する複雑な表層が地球にはあって月にはないことに帰着するだろう。大気と海洋とそこから発生した生物相がその表層を構成する。ヒトもその一員として現れて、反応系の複雑さを増幅したことは言うまでもない。もし仮に月にもそうした複雑系が存在し、水も空気も生命も文明もあって、地球の状況が逐一観察され、時折かぐや姫を遣わして直接的な情報さえ得ている... としたら、そのような「月」はむしろ地球の隣人であり、「外部」の存在とは言えなくなってしまう。BがAの「外部」にあるためには、両者の非対称が必須なのである。 少なくとも人類史の時間尺度に関するかぎり、そして地球から見るかぎり、月はただ存在してきた。満ち欠けをくりかえすこと以外は、何ひとつ変ることなく夜空にあって、東に昇り、西に沈んだ。それだけで地球表層には月関連の森羅万象が生じ、また滅した。常住の月を望む、無常の地球。それは、月が地球にとって到達不可能な外部にあるがゆえの非対称なのである。 人類は月以外に外部性の条件を満たすものをみずから制作した。神と仏である。しかし神は太陽にこそ比されるべきだろう。月に並ぶのは仏を措いてほかにない。正法眼蔵・大悟の巻にいう、 大悟の渾悟を仏祖とせるにはあらず、仏祖の渾仏祖を渾大悟なりとにはあらざるなり。仏祖は大悟の辺際を跳出し、大悟は仏祖より向上に跳出する面目なり。 細部はどうあれ、この断章が指し示すのは、仏祖と大悟との、つまり人である仏祖と、完全なる仏の悟りとの、決して一致しない関係である。仏祖は大悟に到達しないというより、通過する。そして通り過ぎたかと思えば再びその先に大悟が現れる。常住の大悟。その光に向かい、これを通(透)り、去っていくという所作の系列を繰り返しながら、人は人に成っていく。このように道元が仏法を書き換えたのだとすれば、それは従来、仏に成るという定型で表明されてきたことの、より精度の高い表現と言えるのではないだろうか。   If there were no moon, things would be totally different on the earth. Patterns of the tide would change if not stop, behaviours of nocturnal animals would become different, and endocrine systems of all living... Continue Reading →

鳥が鳥になるために|A “bird” is about becoming a bird.

これは、正法眼蔵(第十二・坐禅箴)に引用された、宏智禅師による坐禅箴(坐禅の要機)の最後の部分である: 水清徹底兮 魚行遅々 空闊莫涯兮 鳥飛杳々 水が底まで見えるほど澄みきっている。魚の影がほとんど動かない。空が涯てしなく闊ひろい。鳥がはるか遠くを飛んでいく。 道元はこれについて次のように記す。 空の飛去ひこするとき、鳥も飛去するなり。鳥の飛去するに、空も飛去するなり。飛去を参究する道取どうしゆにいはく、只在這裏しざいしやりなり。これ兀々地ごつごつちの箴しんなり。いく万程ばんしんか只在這裏をきほひいふ。 空の飛ぶとき鳥も飛び、鳥の飛ぶとき空も飛ぶ。飛を究めて道いう、只ただ這裏ここに在りと。これこそ坐禅の奥義、幾万里の飛が只在這裏を競い道うか。 鳥は空であり、空は鳥である。飛ぶことはここに在ることであり、在ることは飛ぶことである。もちろんこれは物理的には不可能であって、非物理的・非自然的な状況と考えるべきである。あるいは「茶室」的な状況と言い換えてもいい(「花は愛惜にちり」を参照)。できるだけ自然に近い仕方で作庭された「露地」的状況と異なって、「茶室」の空間は抽象化された透過光や、理念化された軸や花で飾られる。––– だとすると、「茶室」とは何なのか。「仏法」とは何なのか。道元がこの巻の最後に示した、宏智の坐禅箴の変形が、もしかするとその問いへのヒントを与えるかもしれない: 水清徹地兮 魚行似魚 空闊透天兮 鳥飛如鳥 水清くして地に徹し、魚の行くこと魚に似たり。 空闊くして天に透り、鳥の飛ぶこと鳥の如し。 こう解釈したい。魚は魚以上の何かになろうとはしていない。魚はただ魚になりたいのだ。魚は未だ魚ではない。だが徹地の清水を行くことで、少しだけ魚に近づける。それも、一度行けばよいわけではない。どこまでも繰り返して、魚は限りなく魚に近づいていく。こうして魚に成っていく魚を、魚という。鳥は未だ鳥ではない。透天の闊空を飛ぶことによって、わづかに鳥のようになる。これを繰り返す。そうして限りなく鳥に近づく鳥を、鳥と呼ぶ。 鳥は生きるためには森に降りて今日の糧を探さなければならない。魚は濁った水にも潜らなければならない。生存だけが目的なら、それでいい。だが魚は考えるかもしれない、魚に生まれた意味を。鳥は問うかもしれない、鳥であることの必然を。闊空と清水は、そのために設えられた場所なのではないだろうか。そして露地に対する茶室、世法に対する仏法も、また同様ではないだろうか。   The following quote is the final part of Hóngzhì's maxim for za-zen, placed in the 12th fascicle of Shobogenzo: The water is clear to its bottom and fish are slow to move. The sky is vast without limit and... Continue Reading →

花は愛惜にちり|Philosophy and beauty superimposed

日本の伝統文化を「かさね」と「うつし」の観点から考えてみよう。かさね(重ね・襲ね)は空間構成に、うつし(移し・現し)は時間様相に主眼があるが、両者は別のものではない。重ねられた各層は推移として経験されるし、移りゆく時は記憶や語りの中で重ね合わされる。 たとえば、茶の湯は所作の系列として構成される。露地(庭)の径を伝い歩いてゆく奥に、茶室が佇む。躙口(にじりぐち)を入ると、そこには露地の自然とは対照的な極小の閉空間が設えられている。開口部には和紙が貼られ、濾過光が静かに落ちてくるほかは、室内から外の様子を見ることはない。招かれた客はしばし静寂に身を委ねて茶を喫し、やがて退出して露地を戻っていく。この 露地(A)– 茶室(B)– 露地(A’) という空間の継起にあって、後の露地はもはや前の露地と同じものとしては経験されない。しかるに露地そのものには何の変更も加えられていないのである。 道元の手になる仏法書『正法眼蔵』は次の一文で始まる。 諸法の仏法なる時節、すなはち迷悟あり … 仏法の「時節」とは? 仏法は常住不変の法ではなかったか? と誰しも思うところだ。その仏法の時節に、仏法の無い時節が続く。 万法ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく…   そして一段はこう結ばれる。   しかもかくのごとくなりといへども、花は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり。 そもそも仏法は釈尊が開き、諸仏諸祖が工夫を加えてきた一つの壮大な作為にほかならない。衆生が世界から出離し、仏法の所作を修めて後、再び世界を見るとき、世界はもはや以前の世界ではない。しかるに世界そのものは何一つ変ることなく、花は散り、草は生え続けるのである。 本来常住の仏法を日本化するにあたって、道元は 世界(A)– 法界(B)– 世界(A’) の形式で世界に仏法をかさねたのではないだろうか。正法眼蔵の冒頭巻の標題「現成公案」は、公案(法界)を世界に現(うつ)すという趣意を反映するものではないのか。法界の本質を抽出し、純化し、そして分析するのではなく、経験の推移のなかにそれを置くという考え。これは、茶を茶として翫味するのではなく、それを一つの所作系列に収めるという思考に通じているように思われる。 見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮  定家 もののあはれを言葉に写す技を究めて後、それを可能にしてきた花と紅葉を去ってみれば、ありふれた浦の夕景にあはれを知る。歌のわざにも茶の湯の心はすでに兆していた。まして定家と道元は同じ時代に生き、同じ文化環境のなかで、詩と仏法をそれぞれに究めたのである。   Among a number of qualities pervading Japanese culture, kasa-ne (superimposition) and utsu-shi (transition) are well worth focusing on. They represent the spatial and temporal aspects of the idea, respectively, defining the... Continue Reading →

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