仏法を会ういし仏法を不会ふういする関棙子かんれいすあり |正法眼蔵第四十五・密語 この言葉の意味が長い間わからなかった。いや、わからない箇所は正法眼蔵中にまだまだ多数あるが、特にわからなさの印象が深かった。というのは、同形の肯定・否定の並立する文が、正法眼蔵全体に亙って分布するからだ。上記はその典型例と言っていい。したがって逆に言えば、この一文が突破できれば、正法眼蔵全体の明度が一気に上昇することになる。 まず語義から。「会」は理解すること、「関棙子」は、からくりの要・勘所という意味だ。前後関係を示せば、 仏法を参学するに多途たづあり。そのなかに、仏法を会し仏法を不会する関棙子あり。正師をみざれば、ありとだにもしらず。 ひとまずこう読める、「仏法を学ぶにいろいろな途があるが、そのなかに、仏法を理解し理解しないという要機がある。正師に逢わなければ、それがあることすらわからない」。あるいはこうも読めるかもしれない、「仏法を学ぶにいろいろな途があるが、そのなかに、仏法を理解するかしないかを分ける要機がある。正師に逢わなければ、それがあることすらわからない」。つまり「関棙子(要機)」に対する「会し不会する」というフレーズを前者は同格と解し、後者は(関棙子にかかる)強調句とみる。 この箇所のさらに前の段には次のような記述がある。「不知を不会といふにあらず。『なんぢもし不会』といふ道理、しづかに参究すべき処分を聴許*するなり、功夫辦道すべし...」。つまり「不会」は少なくとも「会」の単純否定〝わからない〟ではない。それは「しづかに参究」し「功夫辦道(=努力して道をわきまえる) 」を要する程度の複雑さをもつものなのだ。そうであれば、「わかる・わからないを左右する要所」という強調句としての読みは適合しない。会・不会は、それ自体が正師に逢わなければ知られない深い道理であり、まさに「関棙子」なのである。 *「処分を聴許」は司法用語の転用か。〝指示に従う〟という意味と思われるが、要検討。 会/不会が肯定/否定の対でないことはわかった。そこで、必ずしも対立的でない逆向きの関係のありかたを、広く「双対性」と呼ぶことにする。双対性は正法眼蔵全体に分布する。第一巻冒頭の「諸法の仏法なる時節」と「万法のわれにあらざる時節」がそうであるし、坐禅箴の巻では、「いく万程の飛空」と「只在這裏(ただここにある) 」の双対が印象的である。密語の巻ではさらに、雪竇せっちょうの偈げにより次のような双対が示される。 世尊有密語 迦葉不覆蔵 一夜落花雨 満城流水香 (世尊、密語有りて、迦葉かしょう、覆蔵ふぞうせず。一夜落花の雨、満城流水香ばし。) 前半部に故事がある。「ブッダ=世尊が百万の衆の前で花を拈とって見せると、迦葉がただ一人ニコリと笑った」というのがそれだ。これを禅宗の伝統は「世尊の秘密の言葉が、一人迦葉には蔵かくされず理解された」と解釈してきた。文字によらずとも、仏法の真髄は心から心に直接伝わる(以心伝心)という禅宗のスローガンがここに示される。しかしここで雪竇は「密」と「不覆蔵」を、花と香に喩える。咲き誇っていた花が夜来の雨で散ってしまった。朝外に出てみると、水路という水路がみな香りを運んで街を満たしていた。花は失われたのではなく、香に変換されたのだ。樹上に在る密= closed な形式が、満城に拡散する不覆蔵= open な形式に移行した。これを仏法の双対変換と呼んでよいだろう。禅宗の看板にある「以心伝心」はこの双対性を解消してしまうものでしかない。「正師をみざれば双対性のありとだにもしらず」というわけである。 かくして、会/不会は仏法に遍在する双対の一形なのである。仏法はその不変の真髄が心から心へと保持されるのではない。それは双極子間を振動しながら伝播するのだ。あるいは、そのように雪竇&道元は仏法を再設計したのだ。 そして、一つの問題が解決すればただちに次の問題が出現する。何のために双対性はあるのか。 There is a pivot on which you understand or do not understand dharma. | "A cryptic message" Shobogenzo, Fscl. 45 The idea conveyed in this sentence was unclear to me for years. It even... Continue Reading →
“微分” された真実|Reality differentiated (3/3)
諸仏しよぶつ諸祖しよその受持し単伝するは古鏡なり。同見同面なり、同像同鋳なり、同参同証す。胡来胡現十万八千、漢来漢現一念万年なり。|正法眼蔵「古鏡」 仏祖らはいわば一枚の鏡を伝えてきた。同じ姿を映し、同じ形に鋳られ、同じ法を証す。胡が来れば胡を現わし、漢が来れば漢を現わす。十万八千里を越え、万年を一瞬にする。 『正法眼蔵』は迷/悟、修/証といったストラクチャーに代え、鏡・水・竹・蔦... など、テクスチャーに関する表象をいたるところに嵌め込んだ。テクスチャーは「このことを説く」ということをしない。なぜ説かないのか。あるいは、こう問おう。仏法をテクスチャーで考えることは、それが織り込まれた社会に何をもたらすだろうか。 社会にもしテクスチャーがあるとすれば、それは人々のふるまいによって織りなされるだろう。行動の様式は思考の形式に制御される。その思考の形式を制御するのは伝統であり、なかでも宗教であるということは既知の事実と言っていいだろう(いや究極の制御装置は脳であるという見解は、また別枠の話である)。 すると、宗教と社会とはストラクチャーではなく、テクスチャーにおいて結合しうる。人々は教義や聖諦を知って行動するのではなく、テクスチャーを感じて行動するのである。 だからこそ宗教は文化的創造性をもちうる。禅宗が叢林を越えて書・茶・華などの文化要素を創出し、クルアーンに必ずしも記されてはいないであろう美意識がモスクの壁面を装飾する。そのような現象は、経典に定義されたストラクチャーだけからは決して生じないだろう。 ただし数学と異なって、宗教に微分の公式は存在しない。ストラクチャーからひとつひとつテクスチャーを読み取らなければならない。『正法眼蔵』はそれを実践した稀有の例なのではないか。 What all buddhas and ancestors have maintained and transmitted, person to person, is an old mirror. This is one seeing, one face; one image, one casting [of the bronze mirror]; one practice and one realization. When an alien comes, an alien appears across a hundred and... Continue Reading →
“微分” された真実|Reality differentiated (2/3)
道元は続ける: 仏道もとより豊倹より跳出せるゆえに、生滅あり迷悟あり生仏あり、しかもかくのごとくなりといへども花は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり。 豊と倹、つまり多少・大小・高低など積分的・構造的な示標で記述される世界から仏道は跳出することを求める。したがって、生と滅、迷と悟、衆生と諸仏などといった別があるとしても、それを〝微分〟して仏道のテクスチャーを観察してみれば、いずれも連続的であり、「花」と「草」に本質的な区別はないのである。 仮説。『正法眼蔵』は仏法の解析学である。 それを創始したのは道元ではなく、ブッダである。仏法は始めから〝解析的〟だった。「マーガンディヤよ、わたしには『このことを説く』ということがない」(スッタ・ニパータ)の言葉は、仏法には静的パラメータがないことを示唆する。達磨が梁武帝に仏法の根本義(聖諦)は何かと尋ねられた際も、かれは「廓然無聖(廓然=からっぽ)」と答えた(碧巌録第一則)。 あるいはいう、 説の性なることを参学する、これ仏祖の嫡孫なり。性は説なることを信受する、これ嫡孫の仏祖なり。 これは「説心説性」というフレーズに関する考察の一部だが、一見、意味不明である。ふつうに読めば「心を説き、性を説く」(性とは、仏性のことである)となるのを、説と性が等置されている。さらに「仏祖の嫡孫」が逆転して「嫡孫の仏祖」となる。これらは文法という言語のストラクチャーに留まるかぎり、ありえない構文である。だがもしストラクチャーを離れ、助詞「の」の統語機能を脱落させれば「の」は単なる連結要素にすぎなくなり、「仏祖の嫡孫」は「嫡孫の仏祖」に容易に逆転する。また「説」と「性」の間の V-O 構造(動詞-目的語)が解除されれば、「仏性の存在とそれを説くこととの等価」という解も、また可能になる。 Dōgen says, The buddha way, in essence, is leaping clear of abundance and lack; thus –– acknowledging that there is birth and death, delusion and wakefulness, mundane beings and buddhas –– it is just that blossoms fall in attachment and weeds spread in aversion.... Continue Reading →
“微分” された真実|Reality differentiated (1/3)
禅のテキストは一見して矛盾に満ちている。これを、ありがちな解説書に言うように「言葉を超えた真理を示す」ものと考えるのを止め、テクスチャーとストラクチャーという観点から見直してみたらどうか。 関数を微分すると、定数項が脱落する。静的なパラメータが消えて、動的特性だけが残る。それはグラフの傾きであったり、曲率であったりする。これを関数の「テクスチャー」とする。 𝑦﹦sin 𝑥 のテクスチャーは 𝑦′﹦cos 𝑥 であるというように。逆に、テクスチャーをある境界条件のもとに積分して現れるグラフを、その「ストラクチャー」と呼ぶことにする。 『正法眼蔵』の冒頭: 諸法の仏法なる時節、すなはち迷悟あり、修行あり、生あり、死あり、諸仏あり、衆生あり。万法ともにわれにあらざる時節、まどひなく、さとりなく、諸仏なく、衆生なく、生なく、滅なし。 前半と後半がまったく矛盾しているように見える。だが、前半は迷/悟、衆生/諸仏という、仏法を構成する静的な区別=ストラクチャーの記述であり、後半ではそれらの項が〝微分〟されて消えたと考えれば、矛盾は解消される。万法ともに「われにあらざる」とは、あらゆる存在者は自存せず(無自性)、つねにその因果的近傍(因縁)とともにあるという、龍樹の「空」の原理を述べる。それは、点から全体に一挙に飛躍するストラクチャーの観点ではなく、近傍の連なりとしてのテクスチャーに着目する考えかたである。 Zen dialogs seems to be characterized by apparent contradictions. Rather than follow the popular explanation that Zen Buddhism, through contradictions, shows us the "truth beyond logic", let me consider them from the viewpoint of contrast between texture and structure, or between differential and... Continue Reading →
世界は小さな世界の集合である|Across myriads of tangible worlds (2/2)
(前回から続く) 人、物、事、しかも現存するものに限らず、過去にあったもの、これからあるかもしれないものにも皆、それぞれの小界(こかい)があって、現在の小界に因果的に連結されている。そればかりか、分析哲学にいう「可能世界」も可能小界に分割されて、やはり小界の一部を作すと考えられる。こうして最大限の幅で考えられた事物 𝑥 の全体を 𝛤 として、それらすべての 𝑥∈𝛤 にわたって各々の小界 𝑈(𝑥) を併せた巨大な集合を考え、これを世界 𝑊 と呼ぶ: $latex W = \bigcup_{x\in \Gamma} U(x)$ ふつうの言葉で言い直そう。世界とは、人や動物、植物、岩石、その他諸々の事物の集合ではなく、事物の近傍(小界)の連なりなのである。これに伴い、「私が世界に存在する」という従来の描像に代えて、「私は私の小界を通じて世界に存在する」という描像が採用されることになる。自己の小界は、無数の他者の小界と、ときに重なり、ときに離れながら、世界という無際限の空間の波動のなかにある。一点 𝑥 の振動は一小界 𝑈(𝑥) を振動させ、一小界の振動は百千万小界に伝播し、やがて世界の辺際に去っていく。 自己 𝑥 の行住坐臥はじつは自己の小界 𝑈(𝑥) の行住坐臥なのである。自己の洗面沐浴は自己の小界の洗面沐浴なのである。ゆえに道元はこう述べた。澡浴し、香華を添えるは、ひとり身心を浄めるにあらず。山河大地を浄め、日月天空を浄め、過去現在未来を浄めるものなりと。 仏仏祖祖嫡嫡正伝する正法には、澡浴をもちいるに、身心内外、五臓六腑、依正二報、法界虚空の内外中間、たちまちに清浄なり。香華をもちいてきよむるとき、過去現在未来、因縁行業、たちまちに清浄なり。|正法眼蔵第五十・洗面 Everything has its kokai (小界), a causal environ surrounding it. By 'everything' I mean any human being, any living creature, any physical object, or any event which... Continue Reading →
世界は小さな世界の集合である|Across myriads of tangible worlds (1/2)
「世界」という、よく使う言葉の精度を上げたい。 自分の知っている世界は、「世界」の微小な部分でしかない。本が雑然と積まれた机、左官屋のTが塗った白壁、春の日差し、午後に行く予定の横須賀のレストラン、このまえ読んだ平家物語のなかの宗盛の言葉。挙げればきりがなく、それなりに長いリストができるとしても、「世界」の全体に比べれば私の世界など微塵に等しい。とはいえ、いかに小さくても一応世界の小部分を成している以上、その微塵になにか名前を付けることは許されるだろう。仮にそれを「小界(こかい)」と呼び、記号 𝑈 で表わす。当然、私の小界と他の人たちの小界は一致しないから、それが誰の小界であるかを示すインデクスが必要になる。人 𝑥 の小界を 𝑈(𝑥) と表わそう。まず言えることは、 𝑥 ≠ 𝑦 ならば、𝑈(𝑥) ≠ 𝑈(𝑦). だが2つの小界 𝑈(𝑥), 𝑈(𝑦) は、一致はしないとしても、共通部分を持つということはありうる。私 𝑥 と読者であるあなた 𝑦 は互いのことを全く知らなくても、いままさに 𝑥 の書いたテキストを 𝑦 が読んでいるということによって、小界 𝑈(𝑥), 𝑈(𝑦) は交わっている、共通部分をもっているということになる。 𝑥 と 𝑦 をもっと疎遠なものにしてみよう。𝑦 は江戸時代に生きていた侍としよう。私 𝑥 と侍 𝑦 が会うことは決してない。しかし、𝑦 が見上げた空は、いま 𝑥 が見上げる空と、やはり同じ空である。「空」と言うのが曖昧なら、「月」に置き換えてもいい。地球を周回する唯一の月を、ともに見たのである。このかぎりで、それぞれの小界 𝑈(𝑥), 𝑈(𝑦) はやはり交わっている。こうしてみると、人と人は稀にしか交わらないとしても、小界どうしの交わりは相当に頻繁であり、広汎であると言えそうだ。 次に、人への限定を解こう。𝑥 は動物でも植物でもよいとしよう。動植物も世界の構成員である以上、そうされるべき権利は当然ある。岩石はどうか。足もとに落ちている石ころの小界を人間が想像することは困難だ。が、人間が想像できるかどうかは、石にとってはどうでもよいことだ。同様のことを数学者は数についてやってきたではないか。虚数 𝑖 の意味が最初からわかっていたわけではない。それはただ2乗すると -1 になるという、実数の乗法に反する「架空の数」だったはずだ。石の小界もさしあたっては架空の小界、虚界であってかまわない。 𝑥 の変域をさらに拡張する。人物も、岩石も、現存するものに限る必要はないだろう。過去に生きたすべての人々、過去に存在した一切の有情・無情にもそれぞれの小界があって、現在の小界層と因果的に連続していると考えるのは無理なことではない。 (つづく) Concerning the... Continue Reading →