近代的な知の世界は、分割と総合によって成り立っているらしい。 知的探究の対象は「理」と「文」にまず分かれ それぞれ素粒子から宇宙までの尺度別に、あるいは時代・地域と学派とに細分され 各分野が専門的に調べられた末に、それらの結果が総合される。 総合を一人で行なえる学者はまずいないので民主的な合議制(学会)でそれを代替するが その実質はたいてい、総合の手前の比較もしくは羅列で終る。 だから、たとえば宗教と建築はさしあたって別の事象であり いわゆる宗教建築(教会・モスク・寺院)を別にすれば 両者がどう関係するか、そもそも関係しうるかということすら 不明確ということになる。 しかし道元の生きた中世日本の知は これとはまったくちがった構成をとっていたかもしれない。 その可能性を、安原盛彦『日本建築空間史:中心と奥』(2016 鹿島出版会)から 考えさせられた。 同じ山を描いても画家によって別の山に見え 同じ花を撮っても撮影者によって姿表情が変わる。 それは対象をただ眼が見ているのではなく 心の眼が見ているからだ。 心の眼によってみられた風景を 心 景 と呼ぶことにしよう。 そもそも風景が心の眼で見られているのは「情景」「風情」といった関連語の存在からして当然であるから わざわざ新語を作る必要もないのだが ただ「心の眼」の作用を強調したいがためにそうするわけである。 また心景は心象風景の略称でないことも断っておく。 後者は〝イメージされた風景〟であって、外界の景観とは別の、心の「中」に現れる心理的景観という意味に傾いている。 心景はそうではなく、あくまでも外界に展開する視覚景観に重ねられて現れるものである。 (これを大森荘蔵は「重ね描き」と呼んだ。たとえば『時間と自我』(1992 青土社)所収の「感情と風情」* ) 景観は距離づけられている。 遠景があり、近景があり、そして心景がある。 心景に距離は定義不可能と言われるなら、便宜的にそれを "0" としておく。 自分に密着した(というより、内部にある)層に心景があり それを通して近景から遠景までが透視され、重ねられる。 道元はいう––– 心を識得すれば大地さらにあつさ三寸をます|正法眼蔵・即心是仏 「あつさ」は「深さ」に読み換えていいだろう。 近景のさらに手前に置かれる心景によって、景観の深度は一層増す。 *いま読み返してみたら「重ね描き」を「高階知覚」に替えて論じているが、趣旨は変わらない。 Division followed by integration has been the standard way of knowledge organization... Continue Reading →
音をみる、光をきく。|Ears see, eyes hear.
「五感」というけれど、感覚がきっちり五つなどに分類されるはずもない。演奏の名手には音は「見」えているだろうし、写真の達人は光を「聞」き、影と「話」せるにちがいない。 正法眼蔵という不思議なテキストには、「禅」とか「仏教」などという分類枠を適用することが無意味に感じられる瞬間がある。たとえば「眼睛」巻に引用された、如浄によじよう の偈げ。 瞿曇打失眼睛時 |瞿曇くどん、眼睛を打失せる時 雪裡梅花只一枝 |雪裡せつり に梅花ばいか只一枝なり 而今到処成荊棘 |而今いま、到る処に荊棘けいきよくを成し 却笑春風繚乱吹 |却かえ って春風の繚乱りようらんとして吹くを笑ふ 瞿曇くどん(ブッダ)が「眼睛」を失うとは、二重の意味がある。一つは視力の衰え。ブッダは八十年の長寿を生きたと伝えられるから、晩年、白内障などにより視力が低下した可能性は高い。もう一つは、眼睛=覚りの眼で、それを失うとは、仏教全体にとっても重大な意味をもつ。無上の悟りを得たブッダがそれを失うということが、ありうるのか。全体が白く雪に覆われてしまったその視野に、梅花がただ一枝。荊のようにごつごつした樹影は、そのまま老瞿曇の姿に重なる。雪中、繚乱として吹く早春の風に、ブッダが笑う。 なんて下手くそな解説だ。。。 四行目の「却」が深い。眼は失ったが、かえって全身が眼になったということか。あるいは弓を用いずして射る名人伝説のように*1、不射之射、不見之見の域に達したのか。 Classifying is just a means for particular puropses and, if it stays fixed, will be useless or even be able to confine us within the grids of classification which we have created for ourselves. Perception, for example, is a general phenomenon that... Continue Reading →
世界は小さな世界の集合である|Across myriads of tangible worlds (1/2)
「世界」という、よく使う言葉の精度を上げたい。 自分の知っている世界は、「世界」の微小な部分でしかない。本が雑然と積まれた机、左官屋のTが塗った白壁、春の日差し、午後に行く予定の横須賀のレストラン、このまえ読んだ平家物語のなかの宗盛の言葉。挙げればきりがなく、それなりに長いリストができるとしても、「世界」の全体に比べれば私の世界など微塵に等しい。とはいえ、いかに小さくても一応世界の小部分を成している以上、その微塵になにか名前を付けることは許されるだろう。仮にそれを「小界(こかい)」と呼び、記号 𝑈 で表わす。当然、私の小界と他の人たちの小界は一致しないから、それが誰の小界であるかを示すインデクスが必要になる。人 𝑥 の小界を 𝑈(𝑥) と表わそう。まず言えることは、 𝑥 ≠ 𝑦 ならば、𝑈(𝑥) ≠ 𝑈(𝑦). だが2つの小界 𝑈(𝑥), 𝑈(𝑦) は、一致はしないとしても、共通部分を持つということはありうる。私 𝑥 と読者であるあなた 𝑦 は互いのことを全く知らなくても、いままさに 𝑥 の書いたテキストを 𝑦 が読んでいるということによって、小界 𝑈(𝑥), 𝑈(𝑦) は交わっている、共通部分をもっているということになる。 𝑥 と 𝑦 をもっと疎遠なものにしてみよう。𝑦 は江戸時代に生きていた侍としよう。私 𝑥 と侍 𝑦 が会うことは決してない。しかし、𝑦 が見上げた空は、いま 𝑥 が見上げる空と、やはり同じ空である。「空」と言うのが曖昧なら、「月」に置き換えてもいい。地球を周回する唯一の月を、ともに見たのである。このかぎりで、それぞれの小界 𝑈(𝑥), 𝑈(𝑦) はやはり交わっている。こうしてみると、人と人は稀にしか交わらないとしても、小界どうしの交わりは相当に頻繁であり、広汎であると言えそうだ。 次に、人への限定を解こう。𝑥 は動物でも植物でもよいとしよう。動植物も世界の構成員である以上、そうされるべき権利は当然ある。岩石はどうか。足もとに落ちている石ころの小界を人間が想像することは困難だ。が、人間が想像できるかどうかは、石にとってはどうでもよいことだ。同様のことを数学者は数についてやってきたではないか。虚数 𝑖 の意味が最初からわかっていたわけではない。それはただ2乗すると -1 になるという、実数の乗法に反する「架空の数」だったはずだ。石の小界もさしあたっては架空の小界、虚界であってかまわない。 𝑥 の変域をさらに拡張する。人物も、岩石も、現存するものに限る必要はないだろう。過去に生きたすべての人々、過去に存在した一切の有情・無情にもそれぞれの小界があって、現在の小界層と因果的に連続していると考えるのは無理なことではない。 (つづく) Concerning the... Continue Reading →
やがて世界が覚める|Propagating awareness
正法眼蔵(広義)はそもそも一つの壮大な構想の企画書である。ブッダがその草案を書き、道元を含む諸仏諸祖が更新を重ねてきた。大乗仏教の段階で、仏はこう定義しなおされた。それは〝目覚めた者〟であるだけでなく、人を〝目覚めさせる者〟であるべしと。これによって覚性 awareness が世界に拡散される速度は格段に上がるはずだ。個の悟りが人類レベルの覚醒に拡大する。 十方尽界にあらゆる過現当来の諸衆生は、十方尽界の過現当の諸如来*なり。 :十方世界の過去現在未来のすべての衆生は、十方世界の過去現在未来の如来たちである ––– 正法眼蔵・第四十一「三界唯心」 これは「衆生はそのままで如来である」というような寝ぼけた現状肯定論では全くなく、覚性波が諸衆生を諸如来に変えていく様子を描いている。その金波銀波は過去現在未来を問わず、壁にも石にも草にも木にも向かい、一切の衆生と、一切の衆生の見るもの触れるものとを、次々に覚醒させながら、あっというまに十方尽界の果てに到達するのだ。 * 「如来」は仏の呼称の一つ。 Buddhism is a grand project that Buddha started and a number of his followers, including Dōgen, revised and modified. Mahāyāna redefined the idea of buddha not only to be an awakened one but an awakening one, who is ready to communicate his/her awareness to others,... Continue Reading →
ウンマの「さとり」| Enlightenment over society
「さとり」は仏教のキーワードなのだが、これを個人が体験的に到達する境地みたいに理解すると、仏教とくに禅仏教は心の平安を得るためのトランキライザーになりかねない。そういうことであれば仏教以前にすでにバラモンの修行者たちがより大きなスケールで「宇宙と自我との合一」を求めて瞑想をしていたのだし、ブッダがそのバラモン教を批判して新たな宗教運動を起す必要もなかっただろう。あるムスリムが SNS 上でさとりを至上目標とする仏教徒を笑っていたが、はじめからウンマ(社会、一般にはイスラーム共同体と訳される)を中心に考えるかれらからすれば、笑われても仕方のないところだ。 仏教もじつはすでに二千年前に自己批判して、自己の得悟とともに他者への慈悲を基本原則に加えた。大乗仏教という。時々その初心が忘れられてしまうようなので、ここで確認しておきたい。もちろん道元はその継承者だ。たとえば正法眼蔵のこのフレーズ: 達磨すでに伝与するときは達磨なり 二祖すでに得髄するには達磨なり |第三十八・葛藤 中国仏教の初祖・達磨がその法を二祖・慧可に伝えた。伝法が「達磨」と「慧可」の差を消滅させるというのだ。「得髄」には故事があるが、さしあたりここでは〝仏法の真髄を得ること〟と理解しておいていい。「自己から他己に法を伝える」という構図が逆転して、「伝法が各己を定義する」ことになる。そうして法が波動のように社会空間を伝播し、「ウンマ」に平安をもたらす。これが大乗仏教、というより、「無我」を説いたブッダその人の構想だったのではないか。それならばムハンマドも、仏徒には仏徒のやりかたがあるくらいには思ってくれるかもしれない。 The problem is that Zen Buddhism is believed to be about Satori or enlightenment. If Satori is understood as an ultimate state of mind that can be attained through practice, then the focus of Buddhism would be on individuals who seek for perfect calmness and awareness, which is... Continue Reading →