これは、正法眼蔵(第十二・坐禅箴)に引用された、宏智禅師による坐禅箴(坐禅の要機)の最後の部分である: 水清徹底兮 魚行遅々 空闊莫涯兮 鳥飛杳々 水が底まで見えるほど澄みきっている。魚の影がほとんど動かない。空が涯てしなく闊ひろい。鳥がはるか遠くを飛んでいく。 道元はこれについて次のように記す。 空の飛去ひこするとき、鳥も飛去するなり。鳥の飛去するに、空も飛去するなり。飛去を参究する道取どうしゆにいはく、只在這裏しざいしやりなり。これ兀々地ごつごつちの箴しんなり。いく万程ばんしんか只在這裏をきほひいふ。 空の飛ぶとき鳥も飛び、鳥の飛ぶとき空も飛ぶ。飛を究めて道いう、只ただ這裏ここに在りと。これこそ坐禅の奥義、幾万里の飛が只在這裏を競い道うか。 鳥は空であり、空は鳥である。飛ぶことはここに在ることであり、在ることは飛ぶことである。もちろんこれは物理的には不可能であって、非物理的・非自然的な状況と考えるべきである。あるいは「茶室」的な状況と言い換えてもいい(「花は愛惜にちり」を参照)。できるだけ自然に近い仕方で作庭された「露地」的状況と異なって、「茶室」の空間は抽象化された透過光や、理念化された軸や花で飾られる。––– だとすると、「茶室」とは何なのか。「仏法」とは何なのか。道元がこの巻の最後に示した、宏智の坐禅箴の変形が、もしかするとその問いへのヒントを与えるかもしれない: 水清徹地兮 魚行似魚 空闊透天兮 鳥飛如鳥 水清くして地に徹し、魚の行くこと魚に似たり。 空闊くして天に透り、鳥の飛ぶこと鳥の如し。 こう解釈したい。魚は魚以上の何かになろうとはしていない。魚はただ魚になりたいのだ。魚は未だ魚ではない。だが徹地の清水を行くことで、少しだけ魚に近づける。それも、一度行けばよいわけではない。どこまでも繰り返して、魚は限りなく魚に近づいていく。こうして魚に成っていく魚を、魚という。鳥は未だ鳥ではない。透天の闊空を飛ぶことによって、わづかに鳥のようになる。これを繰り返す。そうして限りなく鳥に近づく鳥を、鳥と呼ぶ。 鳥は生きるためには森に降りて今日の糧を探さなければならない。魚は濁った水にも潜らなければならない。生存だけが目的なら、それでいい。だが魚は考えるかもしれない、魚に生まれた意味を。鳥は問うかもしれない、鳥であることの必然を。闊空と清水は、そのために設えられた場所なのではないだろうか。そして露地に対する茶室、世法に対する仏法も、また同様ではないだろうか。 The following quote is the final part of Hóngzhì's maxim for za-zen, placed in the 12th fascicle of Shobogenzo: The water is clear to its bottom and fish are slow to move. The sky is vast without limit and... Continue Reading →