“微分” された真実|Reality differentiated (3/3)

諸仏しよぶつ諸祖しよその受持し単伝するは古鏡なり。同見同面なり、同像同鋳なり、同参同証す。胡来胡現十万八千、漢来漢現一念万年なり。|正法眼蔵「古鏡」 仏祖らはいわば一枚の鏡を伝えてきた。同じ姿を映し、同じ形に鋳られ、同じ法を証す。胡が来れば胡を現わし、漢が来れば漢を現わす。十万八千里を越え、万年を一瞬にする。 『正法眼蔵』は迷/悟、修/証といったストラクチャーに代え、鏡・水・竹・蔦... など、テクスチャーに関する表象をいたるところに嵌め込んだ。テクスチャーは「このことを説く」ということをしない。なぜ説かないのか。あるいは、こう問おう。仏法をテクスチャーで考えることは、それが織り込まれた社会に何をもたらすだろうか。 社会にもしテクスチャーがあるとすれば、それは人々のふるまいによって織りなされるだろう。行動の様式は思考の形式に制御される。その思考の形式を制御するのは伝統であり、なかでも宗教であるということは既知の事実と言っていいだろう(いや究極の制御装置は脳であるという見解は、また別枠の話である)。 すると、宗教と社会とはストラクチャーではなく、テクスチャーにおいて結合しうる。人々は教義や聖諦を知って行動するのではなく、テクスチャーを感じて行動するのである。 だからこそ宗教は文化的創造性をもちうる。禅宗が叢林を越えて書・茶・華などの文化要素を創出し、クルアーンに必ずしも記されてはいないであろう美意識がモスクの壁面を装飾する。そのような現象は、経典に定義されたストラクチャーだけからは決して生じないだろう。 ただし数学と異なって、宗教に微分の公式は存在しない。ストラクチャーからひとつひとつテクスチャーを読み取らなければならない。『正法眼蔵』はそれを実践した稀有の例なのではないか。   What all buddhas and ancestors have maintained and transmitted, person to person, is an old mirror. This is one seeing, one face; one image, one casting [of the bronze mirror]; one practice and one realization. When an alien comes, an alien appears across a hundred and... Continue Reading →

“微分” された真実|Reality differentiated (2/3)

道元は続ける: 仏道もとより豊倹より跳出せるゆえに、生滅あり迷悟あり生仏あり、しかもかくのごとくなりといへども花は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり。 豊と倹、つまり多少・大小・高低など積分的・構造的な示標で記述される世界から仏道は跳出することを求める。したがって、生と滅、迷と悟、衆生と諸仏などといった別があるとしても、それを〝微分〟して仏道のテクスチャーを観察してみれば、いずれも連続的であり、「花」と「草」に本質的な区別はないのである。 仮説。『正法眼蔵』は仏法の解析学である。 それを創始したのは道元ではなく、ブッダである。仏法は始めから〝解析的〟だった。「マーガンディヤよ、わたしには『このことを説く』ということがない」(スッタ・ニパータ)の言葉は、仏法には静的パラメータがないことを示唆する。達磨が梁武帝に仏法の根本義(聖諦)は何かと尋ねられた際も、かれは「廓然無聖(廓然=からっぽ)」と答えた(碧巌録第一則)。 あるいはいう、 説の性なることを参学する、これ仏祖の嫡孫なり。性は説なることを信受する、これ嫡孫の仏祖なり。 これは「説心説性」というフレーズに関する考察の一部だが、一見、意味不明である。ふつうに読めば「心を説き、性を説く」(性とは、仏性のことである)となるのを、説と性が等置されている。さらに「仏祖の嫡孫」が逆転して「嫡孫の仏祖」となる。これらは文法という言語のストラクチャーに留まるかぎり、ありえない構文である。だがもしストラクチャーを離れ、助詞「の」の統語機能を脱落させれば「の」は単なる連結要素にすぎなくなり、「仏祖の嫡孫」は「嫡孫の仏祖」に容易に逆転する。また「説」と「性」の間の V-O 構造(動詞-目的語)が解除されれば、「仏性の存在とそれを説くこととの等価」という解も、また可能になる。   Dōgen says, The buddha way, in essence, is leaping clear of abundance and lack; thus –– acknowledging that there is birth and death, delusion and wakefulness, mundane beings and buddhas –– it is just that blossoms fall in attachment and weeds spread in aversion.... Continue Reading →

“微分” された真実|Reality differentiated (1/3)

禅のテキストは一見して矛盾に満ちている。これを、ありがちな解説書に言うように「言葉を超えた真理を示す」ものと考えるのを止め、テクスチャーとストラクチャーという観点から見直してみたらどうか。 関数を微分すると、定数項が脱落する。静的なパラメータが消えて、動的特性だけが残る。それはグラフの傾きであったり、曲率であったりする。これを関数の「テクスチャー」とする。 𝑦﹦sin 𝑥 のテクスチャーは 𝑦′﹦cos 𝑥 であるというように。逆に、テクスチャーをある境界条件のもとに積分して現れるグラフを、その「ストラクチャー」と呼ぶことにする。 『正法眼蔵』の冒頭: 諸法の仏法なる時節、すなはち迷悟あり、修行あり、生あり、死あり、諸仏あり、衆生あり。万法ともにわれにあらざる時節、まどひなく、さとりなく、諸仏なく、衆生なく、生なく、滅なし。 前半と後半がまったく矛盾しているように見える。だが、前半は迷/悟、衆生/諸仏という、仏法を構成する静的な区別=ストラクチャーの記述であり、後半ではそれらの項が〝微分〟されて消えたと考えれば、矛盾は解消される。万法ともに「われにあらざる」とは、あらゆる存在者は自存せず(無自性)、つねにその因果的近傍(因縁)とともにあるという、龍樹の「空」の原理を述べる。それは、点から全体に一挙に飛躍するストラクチャーの観点ではなく、近傍の連なりとしてのテクスチャーに着目する考えかたである。   Zen dialogs seems to be characterized by apparent contradictions. Rather than follow the popular explanation that Zen Buddhism, through contradictions, shows us the "truth beyond logic", let me consider them from the viewpoint of contrast between texture and structure, or between differential and... Continue Reading →

世界は小さな世界の集合である|Across myriads of tangible worlds (1/2)

「世界」という、よく使う言葉の精度を上げたい。 自分の知っている世界は、「世界」の微小な部分でしかない。本が雑然と積まれた机、左官屋のTが塗った白壁、春の日差し、午後に行く予定の横須賀のレストラン、このまえ読んだ平家物語のなかの宗盛の言葉。挙げればきりがなく、それなりに長いリストができるとしても、「世界」の全体に比べれば私の世界など微塵に等しい。とはいえ、いかに小さくても一応世界の小部分を成している以上、その微塵になにか名前を付けることは許されるだろう。仮にそれを「小界(こかい)」と呼び、記号 𝑈 で表わす。当然、私の小界と他の人たちの小界は一致しないから、それが誰の小界であるかを示すインデクスが必要になる。人 𝑥 の小界を 𝑈(𝑥) と表わそう。まず言えることは、 𝑥 ≠ 𝑦 ならば、𝑈(𝑥) ≠ 𝑈(𝑦). だが2つの小界 𝑈(𝑥), 𝑈(𝑦) は、一致はしないとしても、共通部分を持つということはありうる。私 𝑥 と読者であるあなた 𝑦 は互いのことを全く知らなくても、いままさに 𝑥 の書いたテキストを 𝑦 が読んでいるということによって、小界 𝑈(𝑥), 𝑈(𝑦) は交わっている、共通部分をもっているということになる。 𝑥 と 𝑦 をもっと疎遠なものにしてみよう。𝑦 は江戸時代に生きていた侍としよう。私 𝑥 と侍 𝑦 が会うことは決してない。しかし、𝑦 が見上げた空は、いま 𝑥 が見上げる空と、やはり同じ空である。「空」と言うのが曖昧なら、「月」に置き換えてもいい。地球を周回する唯一の月を、ともに見たのである。このかぎりで、それぞれの小界 𝑈(𝑥), 𝑈(𝑦) はやはり交わっている。こうしてみると、人と人は稀にしか交わらないとしても、小界どうしの交わりは相当に頻繁であり、広汎であると言えそうだ。 次に、人への限定を解こう。𝑥 は動物でも植物でもよいとしよう。動植物も世界の構成員である以上、そうされるべき権利は当然ある。岩石はどうか。足もとに落ちている石ころの小界を人間が想像することは困難だ。が、人間が想像できるかどうかは、石にとってはどうでもよいことだ。同様のことを数学者は数についてやってきたではないか。虚数 𝑖 の意味が最初からわかっていたわけではない。それはただ2乗すると -1 になるという、実数の乗法に反する「架空の数」だったはずだ。石の小界もさしあたっては架空の小界、虚界であってかまわない。 𝑥 の変域をさらに拡張する。人物も、岩石も、現存するものに限る必要はないだろう。過去に生きたすべての人々、過去に存在した一切の有情・無情にもそれぞれの小界があって、現在の小界層と因果的に連続していると考えるのは無理なことではない。 (つづく) Concerning the... Continue Reading →

ジョイントを交換せよ|Buddha’s project to redesign the society (2/2)

ブッダはどうしたか。 ブッダは、言語に「オブジェクト指向」を導入した。つまり、人々の交す言語に、仏法というオブジェクトを追加した。それはまだ見ぬ認識風景の集まりみたいなもので、ブッダ自身、「我は無い」とか、「あらゆるものは無常だ」といった程度の最小限の内容しか与えていない。だがこのオブジェクトを設定することによって、そこに様々な属性を定義していくというプログラムがひきおこされる。ただ言葉を交すのではなく、仏法について言葉を交す。これによって仏法経由の言語が日常の言語空間を浸潤していく。同様の試みが西方で「神」オブジェクトによって開始されており、それがやがてイエスによって、次にムハンマドによって更新されることを、ブッダは知らない。 だからブッダは人々に向かって説法した。ひたすら仏法言語を拡散することに努めた。黙って自分だけ「さとり」に浸っている場合ではなかった。 道元に語ってもらおう: 大道十成するとき説法十成す 法蔵附嘱するとき説法附嘱す 拈華のとき拈説法あり 伝衣のとき伝説法あり このゆゑに諸仏諸祖おなじく威音王以前より説法に奉覲しきたり 諸仏以前より説法に本行しきたれるなり 説法は仏祖の理しきたるとのみ参学することなかれ 仏祖は説法に理せられきたるなり |正法眼蔵第四十六・無情説法 つまりこう言っている。仏法を経由する十個のコードは十の言葉として人々に共有され、一揃いのプログラムが与えられれば一篇の物語となって拡散する。華を拈れば華を説き、衣を伝えれば衣を説く。こうして仏祖たちはみな永劫の昔から仏法の言葉を創り、広めつづけた。しかも、仏祖が仏法言語を創っただけではない。仏法言語が仏祖を創りもしたのだ。   The strategy Buddha developed to change people's way of using their language can be called 'object-oriented-ness'; he added an absolutely new object, dharma, to the language people spoke. It is kind of a yet unknown collection of facts and truths about yourself, your experience, the world you... Continue Reading →

ジョイントを交換せよ|Buddha’s project to redesign the society (1/2)

工学的見地に立つと、人間の特徴は世界を改修する能力をもっている点にあるだろう。人間はそのいみで例外なく職人といえる。腕利きもいれば下手もいるし、職種も千差万別。自分自身の近辺だけを改修することに集中する職人もいれば(自分とは世界の部分だ)、大勢の職人を統率する棟梁や、改修のデザインを考えることに長けた設計家もいる。夕方になると、世界中で一仕事終えた職人たちが一風呂浴びて、一杯やったりしているわけである。 ブッダももちろん一職人だった。かれは世界の現状を「皆苦」とみた。どうすれば「皆楽」になると彼は考えたか。仏教学者の通説とは独立に、本研究所はこう理解する。世界は人と物事、およびそれらの繋がりでできている。繋がりを構成する重要な要素として言語がある。物をどう呼ぶか、人と人の間にどんな言葉が交わされるかが、世界の質に大きな影響を与える。建築家ピーター・ズントーが言う通り、「空間の質はジョイントで決まる」のである。よし、ならば改修のターゲットを言語に定めよう。苦しか生みださない言語を、楽に転ずるようにしよう。 だがそうは言っても、人の言語を簡単に変えられるわけがない。そこでブッダはどうしたか。→つづく   From the viewpoint of engineering, human beings will be characterised by the ability to rebuild their living environment that is both physical and social. They are all "craftsmen" in this sense. Some are very skilled while others are not so talented. There is a great diversity in types of activity; some... Continue Reading →

漢字は文字か|Is Kanji a letter, or an object?

道元はたびたび漢文の文法を無視する。たとえば「諸法実相」のまともな読みは「諸法の実相」で、物事のほんとうの姿という意味だが、道元は「諸法」と「実相」を切り離してこう言う: 実相の諸法に相見すといふは、春は花にいり、人ははるにあふ。|正法眼蔵・第四十三 人は花によって春に逢う。春という抽象的なものに直接は逢えない。同様に、実相という「春」は諸法という「花」に結合=相見することによってはじめて現れる。道元は別のところでそれを「現成公案」と呼んだ。公案とはイデア、抽象理念である。それを身に現成し、心に現成し、言葉に現成し、山河に現成する。その技をきわめる道こそ仏道なのだ。 漢語をそんなふうに扱っていいのかずっと疑問に思っていたが、落合淳思『漢字の成り立ち』(2014) を読んで思いつくことがあった。文字以前、人は対象を言葉で名付け、やがてその名を表わす記号として文字をつくった–––これはメソポタミアやフェニキアの話。黄河平原ではちょっとちがう。殷では、甲骨に生じた亀裂のパターンにそれぞれ名を付けた。亀裂はやがて単純化と体系化を経て漢字と呼ばれることになる。だがそれは名を後から表わす記号ではない。名より先に出現した亀裂=紋様そのものなのだ。だとすれば、漢語があってそれを紋様に記録しているのではなく、紋様があってそれを漢語で読んでいるということだ。読み方は漢流でなければならないという必然性はない。別の読み方を排除する根拠はないわけだ。 道元は直観的にそれを知っていたと考えるしかない。そして諸法(物事)と実相を一旦分離し、有限な事物に無限の実相を展開する技をひたすら磨き、伝えようと正法眼蔵を書いたのだ。   Dōgen frequently violates Chinese grammar. For example, “諸法実相” ––– the reality (実相) of all things (諸法) ––– is transformed into “the reality and all things” and then recombined with each other: The reality meets all things in the same way as spring comes to all flowers, where people... Continue Reading →

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