花は愛惜にちり|Philosophy and beauty superimposed

日本の伝統文化を「かさね」と「うつし」の観点から考えてみよう。かさね(重ね・襲ね)は空間構成に、うつし(移し・現し)は時間様相に主眼があるが、両者は別のものではない。重ねられた各層は推移として経験されるし、移りゆく時は記憶や語りの中で重ね合わされる。 たとえば、茶の湯は所作の系列として構成される。露地(庭)の径を伝い歩いてゆく奥に、茶室が佇む。躙口(にじりぐち)を入ると、そこには露地の自然とは対照的な極小の閉空間が設えられている。開口部には和紙が貼られ、濾過光が静かに落ちてくるほかは、室内から外の様子を見ることはない。招かれた客はしばし静寂に身を委ねて茶を喫し、やがて退出して露地を戻っていく。この 露地(A)– 茶室(B)– 露地(A’) という空間の継起にあって、後の露地はもはや前の露地と同じものとしては経験されない。しかるに露地そのものには何の変更も加えられていないのである。 道元の手になる仏法書『正法眼蔵』は次の一文で始まる。 諸法の仏法なる時節、すなはち迷悟あり … 仏法の「時節」とは? 仏法は常住不変の法ではなかったか? と誰しも思うところだ。その仏法の時節に、仏法の無い時節が続く。 万法ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく…   そして一段はこう結ばれる。   しかもかくのごとくなりといへども、花は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり。 そもそも仏法は釈尊が開き、諸仏諸祖が工夫を加えてきた一つの壮大な作為にほかならない。衆生が世界から出離し、仏法の所作を修めて後、再び世界を見るとき、世界はもはや以前の世界ではない。しかるに世界そのものは何一つ変ることなく、花は散り、草は生え続けるのである。 本来常住の仏法を日本化するにあたって、道元は 世界(A)– 法界(B)– 世界(A’) の形式で世界に仏法をかさねたのではないだろうか。正法眼蔵の冒頭巻の標題「現成公案」は、公案(法界)を世界に現(うつ)すという趣意を反映するものではないのか。法界の本質を抽出し、純化し、そして分析するのではなく、経験の推移のなかにそれを置くという考え。これは、茶を茶として翫味するのではなく、それを一つの所作系列に収めるという思考に通じているように思われる。 見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮  定家 もののあはれを言葉に写す技を究めて後、それを可能にしてきた花と紅葉を去ってみれば、ありふれた浦の夕景にあはれを知る。歌のわざにも茶の湯の心はすでに兆していた。まして定家と道元は同じ時代に生き、同じ文化環境のなかで、詩と仏法をそれぞれに究めたのである。   Among a number of qualities pervading Japanese culture, kasa-ne (superimposition) and utsu-shi (transition) are well worth focusing on. They represent the spatial and temporal aspects of the idea, respectively, defining the... Continue Reading →

奥へ、奥へと。|Deeper than deep

近代的な知の世界は、分割と総合によって成り立っているらしい。 知的探究の対象は「理」と「文」にまず分かれ それぞれ素粒子から宇宙までの尺度別に、あるいは時代・地域と学派とに細分され 各分野が専門的に調べられた末に、それらの結果が総合される。 総合を一人で行なえる学者はまずいないので民主的な合議制(学会)でそれを代替するが その実質はたいてい、総合の手前の比較もしくは羅列で終る。 だから、たとえば宗教と建築はさしあたって別の事象であり いわゆる宗教建築(教会・モスク・寺院)を別にすれば 両者がどう関係するか、そもそも関係しうるかということすら 不明確ということになる。 しかし道元の生きた中世日本の知は これとはまったくちがった構成をとっていたかもしれない。 その可能性を、安原盛彦『日本建築空間史:中心と奥』(2016 鹿島出版会)から 考えさせられた。 同じ山を描いても画家によって別の山に見え 同じ花を撮っても撮影者によって姿表情が変わる。 それは対象をただ眼が見ているのではなく 心の眼が見ているからだ。 心の眼によってみられた風景を 心 景 と呼ぶことにしよう。 そもそも風景が心の眼で見られているのは「情景」「風情」といった関連語の存在からして当然であるから わざわざ新語を作る必要もないのだが ただ「心の眼」の作用を強調したいがためにそうするわけである。 また心景は心象風景の略称でないことも断っておく。 後者は〝イメージされた風景〟であって、外界の景観とは別の、心の「中」に現れる心理的景観という意味に傾いている。 心景はそうではなく、あくまでも外界に展開する視覚景観に重ねられて現れるものである。 (これを大森荘蔵は「重ね描き」と呼んだ。たとえば『時間と自我』(1992 青土社)所収の「感情と風情」* ) 景観は距離づけられている。 遠景があり、近景があり、そして心景がある。 心景に距離は定義不可能と言われるなら、便宜的にそれを "0" としておく。 自分に密着した(というより、内部にある)層に心景があり それを通して近景から遠景までが透視され、重ねられる。 道元はいう––– 心を識得すれば大地さらにあつさ三寸をます|正法眼蔵・即心是仏 「あつさ」は「深さ」に読み換えていいだろう。 近景のさらに手前に置かれる心景によって、景観の深度は一層増す。 *いま読み返してみたら「重ね描き」を「高階知覚」に替えて論じているが、趣旨は変わらない。   Division followed by integration has been the standard way of knowledge organization... Continue Reading →

“微分” された真実|Reality differentiated (3/3)

諸仏しよぶつ諸祖しよその受持し単伝するは古鏡なり。同見同面なり、同像同鋳なり、同参同証す。胡来胡現十万八千、漢来漢現一念万年なり。|正法眼蔵「古鏡」 仏祖らはいわば一枚の鏡を伝えてきた。同じ姿を映し、同じ形に鋳られ、同じ法を証す。胡が来れば胡を現わし、漢が来れば漢を現わす。十万八千里を越え、万年を一瞬にする。 『正法眼蔵』は迷/悟、修/証といったストラクチャーに代え、鏡・水・竹・蔦... など、テクスチャーに関する表象をいたるところに嵌め込んだ。テクスチャーは「このことを説く」ということをしない。なぜ説かないのか。あるいは、こう問おう。仏法をテクスチャーで考えることは、それが織り込まれた社会に何をもたらすだろうか。 社会にもしテクスチャーがあるとすれば、それは人々のふるまいによって織りなされるだろう。行動の様式は思考の形式に制御される。その思考の形式を制御するのは伝統であり、なかでも宗教であるということは既知の事実と言っていいだろう(いや究極の制御装置は脳であるという見解は、また別枠の話である)。 すると、宗教と社会とはストラクチャーではなく、テクスチャーにおいて結合しうる。人々は教義や聖諦を知って行動するのではなく、テクスチャーを感じて行動するのである。 だからこそ宗教は文化的創造性をもちうる。禅宗が叢林を越えて書・茶・華などの文化要素を創出し、クルアーンに必ずしも記されてはいないであろう美意識がモスクの壁面を装飾する。そのような現象は、経典に定義されたストラクチャーだけからは決して生じないだろう。 ただし数学と異なって、宗教に微分の公式は存在しない。ストラクチャーからひとつひとつテクスチャーを読み取らなければならない。『正法眼蔵』はそれを実践した稀有の例なのではないか。   What all buddhas and ancestors have maintained and transmitted, person to person, is an old mirror. This is one seeing, one face; one image, one casting [of the bronze mirror]; one practice and one realization. When an alien comes, an alien appears across a hundred and... Continue Reading →

“微分” された真実|Reality differentiated (2/3)

道元は続ける: 仏道もとより豊倹より跳出せるゆえに、生滅あり迷悟あり生仏あり、しかもかくのごとくなりといへども花は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり。 豊と倹、つまり多少・大小・高低など積分的・構造的な示標で記述される世界から仏道は跳出することを求める。したがって、生と滅、迷と悟、衆生と諸仏などといった別があるとしても、それを〝微分〟して仏道のテクスチャーを観察してみれば、いずれも連続的であり、「花」と「草」に本質的な区別はないのである。 仮説。『正法眼蔵』は仏法の解析学である。 それを創始したのは道元ではなく、ブッダである。仏法は始めから〝解析的〟だった。「マーガンディヤよ、わたしには『このことを説く』ということがない」(スッタ・ニパータ)の言葉は、仏法には静的パラメータがないことを示唆する。達磨が梁武帝に仏法の根本義(聖諦)は何かと尋ねられた際も、かれは「廓然無聖(廓然=からっぽ)」と答えた(碧巌録第一則)。 あるいはいう、 説の性なることを参学する、これ仏祖の嫡孫なり。性は説なることを信受する、これ嫡孫の仏祖なり。 これは「説心説性」というフレーズに関する考察の一部だが、一見、意味不明である。ふつうに読めば「心を説き、性を説く」(性とは、仏性のことである)となるのを、説と性が等置されている。さらに「仏祖の嫡孫」が逆転して「嫡孫の仏祖」となる。これらは文法という言語のストラクチャーに留まるかぎり、ありえない構文である。だがもしストラクチャーを離れ、助詞「の」の統語機能を脱落させれば「の」は単なる連結要素にすぎなくなり、「仏祖の嫡孫」は「嫡孫の仏祖」に容易に逆転する。また「説」と「性」の間の V-O 構造(動詞-目的語)が解除されれば、「仏性の存在とそれを説くこととの等価」という解も、また可能になる。   Dōgen says, The buddha way, in essence, is leaping clear of abundance and lack; thus –– acknowledging that there is birth and death, delusion and wakefulness, mundane beings and buddhas –– it is just that blossoms fall in attachment and weeds spread in aversion.... Continue Reading →

“微分” された真実|Reality differentiated (1/3)

禅のテキストは一見して矛盾に満ちている。これを、ありがちな解説書に言うように「言葉を超えた真理を示す」ものと考えるのを止め、テクスチャーとストラクチャーという観点から見直してみたらどうか。 関数を微分すると、定数項が脱落する。静的なパラメータが消えて、動的特性だけが残る。それはグラフの傾きであったり、曲率であったりする。これを関数の「テクスチャー」とする。 𝑦﹦sin 𝑥 のテクスチャーは 𝑦′﹦cos 𝑥 であるというように。逆に、テクスチャーをある境界条件のもとに積分して現れるグラフを、その「ストラクチャー」と呼ぶことにする。 『正法眼蔵』の冒頭: 諸法の仏法なる時節、すなはち迷悟あり、修行あり、生あり、死あり、諸仏あり、衆生あり。万法ともにわれにあらざる時節、まどひなく、さとりなく、諸仏なく、衆生なく、生なく、滅なし。 前半と後半がまったく矛盾しているように見える。だが、前半は迷/悟、衆生/諸仏という、仏法を構成する静的な区別=ストラクチャーの記述であり、後半ではそれらの項が〝微分〟されて消えたと考えれば、矛盾は解消される。万法ともに「われにあらざる」とは、あらゆる存在者は自存せず(無自性)、つねにその因果的近傍(因縁)とともにあるという、龍樹の「空」の原理を述べる。それは、点から全体に一挙に飛躍するストラクチャーの観点ではなく、近傍の連なりとしてのテクスチャーに着目する考えかたである。   Zen dialogs seems to be characterized by apparent contradictions. Rather than follow the popular explanation that Zen Buddhism, through contradictions, shows us the "truth beyond logic", let me consider them from the viewpoint of contrast between texture and structure, or between differential and... Continue Reading →

世界は小さな世界の集合である|Across myriads of tangible worlds (1/2)

「世界」という、よく使う言葉の精度を上げたい。 自分の知っている世界は、「世界」の微小な部分でしかない。本が雑然と積まれた机、左官屋のTが塗った白壁、春の日差し、午後に行く予定の横須賀のレストラン、このまえ読んだ平家物語のなかの宗盛の言葉。挙げればきりがなく、それなりに長いリストができるとしても、「世界」の全体に比べれば私の世界など微塵に等しい。とはいえ、いかに小さくても一応世界の小部分を成している以上、その微塵になにか名前を付けることは許されるだろう。仮にそれを「小界(こかい)」と呼び、記号 𝑈 で表わす。当然、私の小界と他の人たちの小界は一致しないから、それが誰の小界であるかを示すインデクスが必要になる。人 𝑥 の小界を 𝑈(𝑥) と表わそう。まず言えることは、 𝑥 ≠ 𝑦 ならば、𝑈(𝑥) ≠ 𝑈(𝑦). だが2つの小界 𝑈(𝑥), 𝑈(𝑦) は、一致はしないとしても、共通部分を持つということはありうる。私 𝑥 と読者であるあなた 𝑦 は互いのことを全く知らなくても、いままさに 𝑥 の書いたテキストを 𝑦 が読んでいるということによって、小界 𝑈(𝑥), 𝑈(𝑦) は交わっている、共通部分をもっているということになる。 𝑥 と 𝑦 をもっと疎遠なものにしてみよう。𝑦 は江戸時代に生きていた侍としよう。私 𝑥 と侍 𝑦 が会うことは決してない。しかし、𝑦 が見上げた空は、いま 𝑥 が見上げる空と、やはり同じ空である。「空」と言うのが曖昧なら、「月」に置き換えてもいい。地球を周回する唯一の月を、ともに見たのである。このかぎりで、それぞれの小界 𝑈(𝑥), 𝑈(𝑦) はやはり交わっている。こうしてみると、人と人は稀にしか交わらないとしても、小界どうしの交わりは相当に頻繁であり、広汎であると言えそうだ。 次に、人への限定を解こう。𝑥 は動物でも植物でもよいとしよう。動植物も世界の構成員である以上、そうされるべき権利は当然ある。岩石はどうか。足もとに落ちている石ころの小界を人間が想像することは困難だ。が、人間が想像できるかどうかは、石にとってはどうでもよいことだ。同様のことを数学者は数についてやってきたではないか。虚数 𝑖 の意味が最初からわかっていたわけではない。それはただ2乗すると -1 になるという、実数の乗法に反する「架空の数」だったはずだ。石の小界もさしあたっては架空の小界、虚界であってかまわない。 𝑥 の変域をさらに拡張する。人物も、岩石も、現存するものに限る必要はないだろう。過去に生きたすべての人々、過去に存在した一切の有情・無情にもそれぞれの小界があって、現在の小界層と因果的に連続していると考えるのは無理なことではない。 (つづく) Concerning the... Continue Reading →

紐理論 | String theory in Buddhism

7月21・22日、道元研究の国際シンポジウムが東京で開かれた。講演者の一人アルド・トリーニの言葉通り、道元を世界思想家として考える時代がやってきたのだ。講演者の中には依然として道元を曹洞宗学に回収しようとする意思を隠さない者もいたが、もはや道元の世界化を止めることはできないし、止めるべき理由もない。(なんか翻訳日本語調になっている気がするが、興奮がまだ消えていないからだ) フッサールの「間主観性」というアイデアを道元の文脈に挿入するのを試みたゲレオン・コプフの講演を聴きながら、考えたことがある。コプフの意図には沿っていないかもしれないが、まさに沿わないことが彼の意図なのだとも思う。フッサールから道元へ、道元からフッサールへの伝法の意義は、共通点を探すことではなく、変換を記述することにある。そうでないとしたら、仏法はゴータマ・ブッダの言葉を凍結固定して保存すればよく、後世の仏弟子は初めの仏説を復元することに努力を傾注すればよかったはずだ。だが仏法はそうではなかった。ブッダの DNA はたえず変異を繰り返しながら進化し、さらにこれから世界スケールの多様性を受け入れようとしているわけである。 紐があるからその両端がある。端だけがあって後から紐で結ばれるなどということはない。これが「間主観性」という視点であると思われる。コプフの説明によれば、フッサールは「端」から出発して「紐」を発見した。道元は逆に、「紐」を辿って「端」に達する。紐をどこで切断するかによって端の形状はどのようにも変る。雪竇せっちょう(980–1052)はこう述べた: 世尊有密語 迦葉不覆蔵 一夜落花雨 満城流水香 ––– 正法眼蔵・密語 咲き誇る花(密語)が一夜にして流水の香り(不覆蔵)となる。こうしてさまざまな形に「端」を現成させながら仏法の「紐」はどこまでも続く。「紐」はつねに「端」の「間」だが、その「間」こそが実在であって、「端」は「間」の断面にすぎない–––とまとめても、フッサールから文句が出ないことを願う。そしてその紐は誰かが製品として用意してくれてあるのではなく、編みつづけなければならないものだということも、付け加えておく。   The first international symposium on the study of Dōgen was held in Tokyo last week. It was really a landmark meeting as Aldo Tollini, from Universita Ca' Foscari di Venezia, said in his lecture; “Now the age has come to consider Dōgen... Continue Reading →

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