時はすぎず、かさねられる| It’s about a sequence, not a passing, of time.

正法眼蔵「現成公案」から: 諸法の仏法なる時節 すなはち迷悟あり修行あり生あり死あり諸仏あり衆生あり 万法ともにわれにあらざる時節 まどひなくさとりなく諸仏なく衆生なく生なく滅なし 仏道もとより豊倹より跳出せるゆえに 生滅あり迷悟あり生仏あり しかもかくのごとくなりといへども 花は愛惜にちり草は棄嫌におふるのみなり 時節のかさね。仏法とどういう関係があるのだろうか。 仏法は、ひとつの作為である。教えがあり、理論があり、定まった所作がある。 これを究めてのち再び外に出れば、 そこには何ひとつ変らない草花の風情があるばかりだ。 見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮  定家 この和歌における「花」は意味が逆になる。それは、もののあはれを言葉にうつす作為の、主要なしつらいである。 究極にまで洗練された和歌の時節を抜けると、そこにはただ、何も特別なものもない浦の夕景が広がっているばかりだ。 平安期の住空間である寝殿造りは、内側からみれば母屋、庇、簀子という三つの建築的フィルターを介して庭を望む構成をもつ。 そこにさらに、格子、簾、障子などの可動的仕切のほか、 扇、香、着物といった身体近傍の仕切も合わせれば、 主である女君は七重八重のかさねの奥深くにおはせられたことになる。 中世末期に現れる茶の空間は一見寝殿造りとは無関係のようだが、抽象化を加えられた「かさね」の構造とみることができる。 茶室の内部から露地(庭)が眺められることはない。躙口を境に、露地と茶室とは空間的に分離されている。 しかし茶を一連の所作の連鎖として考えるなら、 中潜り(門)を通り、露地を伝って茶室にアプローチするその体験は、躙口を入って以降、記憶として抽象化され、 これから行われるであろう茶の作法にかさねられる。 茶会がおわり、再び外に出ると、さきほど通ってきた露地が具象世界に還る。 いいかえれば、寝殿造の空間的なかさねに対し、茶のそれは時節のかさねなのである。 「諸法の仏法なる時節」には迷いや悟り、諸仏や衆生といった各種のしつらいがある。 それらは元からあったわけではなく(三行目の「われにあらざる」を〝自体としてあるわけではない〟と解す)、 造作されたものなのだ。 それらを透かしてみれば、仏も衆生もさとりもまよいもない、通常の世界が広がっている。 仏道はその通常性、成功(豊)と没落(倹)が交替しつづける世界を、抜け出すべく造られた。 その内部の所作を尽して外に出れば、何ひとつ変らない、草が生え、花が散る通常の世界がそこにある。 しかもこれこそが「世界が変る」という体験なのだ。 世界をそのままに、別世界をかさねるだけで。   Dōgen starts his essay Shōbōgenzō with the following passage: When everything is under dharma, there are delusion, awakening, practice, birth,... Continue Reading →

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